第06回防災まちづくり大賞(平成13年度)

【消防庁長官賞】津波防災のまちづくり(「災害の町」から「防災の町」へ)

【消防庁長官賞】津波防災のまちづくり(「災害の町」から「防災の町」へ)

vol.6 010-013 MapLayer1

田老町(岩手県)

事例の概要

■経緯

 田老町は幾度となく壊滅的な津波被害を受け、「津波太郎(田老)」「災害の町」とまで称されていた。特に、明治29年には死者1,859人(最大波高15m、罹災336戸)、昭和8年には死者911人(最大波高15m、罹災505戸)という犠牲者を出した。昭和8年の津波の後、高台移転や満州移住まで議論されたが、「漁師が海を離れては仕事にならない」との考えから、大防潮堤建設や市街地再編計画を中心とした「田老村災害復旧工事計画」を樹立し、津波に挑むまちづくりを始動させた。
 防潮堤計画は規模が大きすぎて内務省は不認可としたが、中止は子孫に対し悔いを残すとの考えから、昭和8年より単独事業で始まった。その後、昭和10年に状況視察した石黒岩手県知事により県事業に移管され、昭和19年には「津波復興記念」として町制に移行された。防潮堤は、戦争による中断もあって昭和33年に完成した。
 完成した防潮堤は全長1,350m、海面からの高さ10.7m(最大地上高7.7m)、最大根幅25m、上幅3mで、「田老万里の長城」とも称された。
 その後、昭和35年にチリ地震津波が襲来し、岩手県大船渡市では54人が犠牲になるなど、全国で大きな被害を受けた。しかし、田老町では小型船が何隻か流されたものの、人的被害、建物被害は皆無だった。これを契機に、防潮堤の存在が全国、世界から注目されるに至った。
 しかし、これだけでは安心できず、さらに二重目の防潮堤を昭和37年から昭和53年にかけて建設した他、平成12年度には防災行政無線の戸別受信機を全世帯に設置するなど、様々な防災機器の整備を継続してきた。
 田老町では、昭和36年に全町の3分の2を焼失した史上最大の山火事・三陸フェーン大火もあった。そのため、防災ハード面の充実はもちろんのこと、基本である避難訓練の実施や広報紙などでの啓発も毎年続けている。これらの活動により、かつては「災害の町」として有名であったが、今日では「防災の町」として知られるようになった。
 視察や照会は年間数十件あり、修学旅行生の来訪もあった。平成2年には第1回全国津波防災サミットを提唱・開催し、これを契機に、津波防災サミットが全国展開されている。現在まで、津波災害の惨禍は、親から子へ、子から孫へ、そして語り部たちによって確実に語り継がれている。

■内容

  • 1.津波防潮堤の建設(昭和8~32年度:1,350m、昭和37~42年度:582m、昭和47~53年度:501m、遠隔操作制御付き水門)
  • 2.市街地の整備(昭和8~18年度:碁盤の目状の道路整備、道路幅の拡張、高台への接合、交差点の角切りなど)
  • 3.津波避難訓練の実施(昭和9年から実施、全町的本格訓練は昭和32年から実施)
  • 4.避難路、誘導標識の整備(昭和8年から実施、昭和61年度から太陽電池照明・階段整備などを本格化)
  • 5.防潮林の植栽(昭和10年度:黒松7ha)
  • 6.防災行政無線の整備(昭和27年度:町中心街に屋外放送設備を整備、昭和55年度:全町に屋外放送設備を整備、平成12年度:全世帯に戸別受信機を設置するなど放送施設を一新)
  • 7.第1回全国津波防災サミットの開催(平成2年実施、現在は全国展開に)
  • 8.潮位監視システムの設置(平成3年度:水圧式、平成7年度:超音波式)
  • 9.津波監視システムの設置(平成4年度:夜間照明付きテレビカメラ)
  • 10.津波予測システムの設置(平成4年度:東大地震研究所の設置で試験・研究中

vol.6 010-013 P1Layer1

津波防潮堤

vol.6 010-013 P2Layer1

防潮林

vol.6 010-013 P3Layer1

津波避難路

vol.6 010-013 P4Layer1

防災機器室

vol.6 010-013 P5Layer1

津波避難訓練

vol.6 010-013 P6Layer1

水防訓練

vol.6 010-013 P7Layer1

津波訓練伝承

vol.6 010-013 P8Layer1

津波監視カメラ

vol.6 010-013 P9Layer1

潮位センサー

苦労・成功のポイント

■苦労した点

 防潮堤の建設に対して、当初は国、県の補助が得られず、起債、義援金などを頼りに単独事業として進めた。また、最近のハード面の整備では各種補助制度も活用しているが、財政的な面で困難があった。

■成功した点

 甚大な津波被害を受けたため、住民の防災意識が高く、防潮堤建設や市街地再編用地として所有地の2割提供などに協力的だった。また、昭和8年津波当時の関口村長が復興に強烈なリーダーシップを発揮した他、その後の首町も津波防災のまちづくりに尽力し、住民も第一義的課題として支持した。

成果・展望

■成果

 三陸沿岸の宿命でもある津波災害に幾度も遭遇しながら、防潮堤の建設、防災行政無線の充実などを他の自治体に先駆け整備してきた。ハード面の整備はまだ必要であるが、一応の成果をみた。

■展望

 情報伝達の迅速化などが図られたが、津波から人命が助かるためには避難しかない。しかし、防災意識の低下は現実としてあり、避難訓練の一層の充実が必要となっている。また、津波災害を確実に継承していくために、町内の津波関係の施設や史跡などを網羅して町自体を「丸ごと博物館」にする他、「津波科学館」構想も視野に入れている。津波防災について確かな情報発信ができるよう、名実ともに「津波防災の町」としたい。

委員のコメント(高野委員)

 訪問の前日、前線が通過したこともあって海は荒れていた。巨大な波が入り江の岩礁に押し寄せ、津波の襲来を思わせる迫力があった。町の背後に山が迫り、海に面して巨大な防潮堤が築かれていた。高台の避難場所を結ぶ避難道路が町の骨格をつくり、町並みは輪中を思わせる景観を呈していた。海を見下ろせる墓地には、大小の海難事故の慰霊碑に交じって、津波による犠牲者の慰霊碑が建立されていた。災害史に残る津波を二度も経験したこの町は、その希少な経験が人々に受け継がれ、津波から町を守る風景が造り出されていた。そして、これらの風景の一つ一つに先人達が腐心した物語があった。それでも、これらの備えが自然の脅威に対して万全とはいえないという説明があった。町の風景には緊張感が漂っていた。田老町は海の資源に恵まれた美しい町である。ワカメ、アワビなどの漁を生業とし海と暮らす町である。その生活を守るためにも更なる防災への取り組みが重要だと思った。

実施期間

 昭和8年~

事業費

 平成8~32年度防潮堤:1,873万円(一部単独事業)
 平成37~53年度防潮堤・水門:21億3,170万円(県事業)
 平成12年度防災行政無線:2億8,258間年(補助事業)など

団体概要

 人口:4,980人(うち津波襲来予想範囲:2,382人)(平成13年9月1日現在)
 世帯数:1,555戸(うち津波襲来予想範囲:751戸)(平成13年9月1日現在)