フィリピン地震災害
はじめに フィリピン共和国地震災害の状況
国際消防救助隊の構成と携行資機材
行動日程 救助活動 尾崎統括官に聞く 隊員の手記
6.隊員の手記(“東海望楼”1990年9月号より)
フィリピン共和国地震災害に派遣されて
ー名古屋市隊を中心にー
川島 徹雄
7月17日17時25分、派遣要請がきた。朝刊で災害が発生したことは知っている。個人装備品も下準備が整っている。心づもりはしていたが、実際に派遣要請があると、とても緊張する。辞令を受け、新幹線で移動する時には、私たちに与えられた使命の大きさと、リュックサックがやけに肩口に重たく食い込んできた。
18日6時00分、東京消防庁で東京、広島各消防の方々と国際消防救助隊の発隊式を挙行。続いて、新東京国際空港では外務省、国際協力事業団、警察庁救助チームも加わり、国際緊急援助隊の結団式が行われた。ほとんど睡眠をとっていないが、どの救助隊員もやる気満々である。
団長等の自己紹介、査証の説明等一字一句聞き漏らしのないよう気が張り詰めている。特別待合室を出た。私たちの行くところ、どこも報道関係者でごったがえしている。一般のたくさんの旅行客に交じって査証等のチェックが行われた。日本人はほんとうに並ぶのが好きなんだなあ。いよいよ飛ぶんだと思うと若干余裕がでたのか、変なことを考えてた自分が笑えてきた。
マニラは曇り、29度との機内放送であったが、思ったより暑い。ここから被災地により近いサンフェルナンド(マニラ北方約270km、活動予定地バギオ北西約50km)に飛ぶ予定である。日本から持ち込んだ資器材が多くて、一部の資器材はマニラ止まりとなる。
サンフェルナンドはマニラより暑い。資器材の搬送、整理で、すでに疲労感の見える隊員もいる。バギオは雨で、本日中の被災地入りは困難である。空港近くのホテルを予約する。
一流のホテル名だが、ダブルベット1つに男2人の割当てである。また、蛇口をひねって驚いた。水がでないのである。頭はすでにシャンプーで泡だらけだというのに、どうしてくれるんだ。
ピカッ、ドーン。雷が近くに連続で落ちる。スコールの音が激しい。蛙がゲロゲロうるさい。余震も続く。結局この日も、ほとんど熟睡ができない。先が思いやられそうだ。
19日6時空港で待機。外務省の方々がフィリピン、アメリカ空軍と輸送についての交渉に走り回っている。こちらは、いつでも飛び立てるよう資器材の準備に万全を期す。待つこと3時間弱、やっと第1陣がフィリピン空軍のヘリコプターでバギオに向け飛び立っていった。救助活動の開始だ。何度も飛び立って行くが、日本の救助隊にばかりかまっていられないのか、なかなか捗らない。山のような資器材と活動したくてウズウズしている隊員。暑さは、昨日の比でない。資器材の重さが、ずっしりと両腕にかかる。滝のように流れる汗。なま温かい水が、さも冷たそうに喉を潤す。
差し入れのチーズパン。チーズ嫌いの人にもそれしかない。いつもなら4つでも足りないであろうという大きさにもかかわらず、2つめもなかなか喉を通らない。
今、現地入りしたはずの隊員が、目の前に現れた。バギオ上空は厚い雲と雨のため、進入できないと言う。昨日もバギオは午後から雨で、ヘリは飛ばなかった。不安が脳裏を過ぎる。今さら焦ってもしかたないが、先に行っていればと、誰の顔にも明らかである。
不安的中。フライト中止の連絡。サンフェルナンドは焼けるような暑さなのに。雨対策のため、まだ3トン近くもある資器材の積み直しをする。現地入りした隊員はすでに救助活動に入ったという報せに口惜しさを覚えると共に、明日また5トン近くの救援物資が届くとあって、一度に疲労感が漂う。
災害現場で最初に入ったハイアット・テラスホテルは、それはひどい倒壊の仕方だ。隊員の生つばを呑み込む音が聞こえそうである。ホテル・ロイヤルインにも日本隊を派遣した。
2カ所で救助活動開始である。削岩機、ファイバースコープ等を駆使したが、何も発見できない。立穴や横穴を掘り、隊員が進入する。進めど進めど、倒壊したがれきだけしか見えない。雨が降り出し、辺りも薄暗くなってきた。
今夜は、テント組と半壊しているホテル組との2班に別れて宿泊することになる。しかし、着替え等はまだサンフエルナンドである。資器材班は何をしているんだ。もちろんシャワーなどという賛沢なものはない。雨の溜水で顔を洗える程度である。
20日、やっと全隊員が現地入りできた。現地災害本部と調整し、活動場所もハイアットホテル1本に絞る。
削岩機、大ハンマー等で壁を割っては取り除く、根気と忍耐の活動である。立穴から進入し、わずかな隙間をしらみつぶしに検索する。慰留品は出てきても、やはり手応えがない。区画上最上階まで検索したが、やはり手応えはなかった。
建築図面が入手できた。半壊建物側からの進入路の検討を行う。北、東、南の3方向の可能性を検討。実際に現場調査をすることになる。
建物内は結構入り組んでいる。現場と図面説明では多少食い違う場所も確認された。それ以上に、初日に調査した時より明らかに倒壊区域が拡大している。外部からでは分からない所で余震の影響が出ているのだ。
今日から全隊員テント生活である。全隊員揃ったことで、皆元気である。明日の活動を思いながら就寝準備をしている時、外で5~6発爆竹のような音がした。こんな所で花火でもないだろうにと思っていたら、あわてて隊員がテント内に飛び込んできた。自動小銃をぶっ放したのだという。ボランティアの人たちは皆地面に伏している。のほほんと立っていたのは、どうも日本人だけらしい。はなやいだ雰囲気だったテント内は、一転して物音一つしない静けさに陥った。
21日は明るくなると同時に救助活動に入った。活動場所で死臭らしきものが漂い始めた。活動隊員の手がさらに活発になる。額から流れ落ちる汗を拭く間も惜しんで、がれきの排除作業を行う。現場交替も早めに行う。しかし、結局その場所からも何も発見できなかった。
シャワーも浴びていない、救助服も誰もまだ着替えていない。狭いがれきの中では、死臭かも知れない臭いよりも、自分たちの汗臭さの方が上回ってしまいそうである。自分の臭いをかいで、思わず咳き込む。なんて臭さだ。
さらに狭い場所に隊員が進入していく。その時大きな余震がした。あわてて飛び出す。奥に入っている者ほど素早い。活動準備、待機中の隊員も心配で、現場まで駆けつける。幸い何事もなく隊員間に笑顔が見える。
薄暗くなってきたころ、屋上近くのがれきの中から手の様なものがしきりに振られた。救助活動を見守っていた住民等から、時を失せず大きな歓声がわき起こる。何人もの救助隊員が、住民等が指差す場所に急ぐが、いっこうに一致しない。結局、住民が見たものはぶら下がっていた木片で、タ闇の中でさも人間の手のように揺らめいていただけであった。
22日もほぼ同じである。余震まで同じ。違ったのは4階から、遺体ではあったが、1人発見されたことである。ただし、発見したのは日本隊ではない。はめる手袋もない状態での救助作業であるが、こつこつと地元ボランティアの鉱山関係者の活動が続く。
また、もう一つ。小雨降る17時25分、現地災害対策本部の将軍が民衆を集め、事実上の終息宣言を行った。各隊の救助活動への謝意、まだまだ救助活動は続くかも知れないが、継続については強制をしない等の趣旨だったと通訳された。そしてキリスト教国らしくミサが執り行われ、日本ならさしずめペンライトが振られるような雰囲気の中、悲しさに肩を落とす民衆に宣教師と思われる方の慰めの話が続いた。
日本隊は23日から撤収作業に入り、2日がかりで空路でマニラに引き返した。この時も隊員と資器材は同時に移動できず、資器材だけがバギオに取り残されている。
マニラでは日本大使館、大統領宮殿、宿泊施設等で慰労、感謝行事が執り行われ、外交官気分で、援助活動とはまた違った緊張感を味わうことになった。
ほっとした気持ちで日本の土を踏んだ私たちを驚かせたのは、何といっても名古屋での大歓迎である。多くの人たちの出迎えを受け、また家族の元気な半分不安そうな顔を見た時、使命を無事果たし終えた充実感と安堵で、目頭が熱くなるのを感じた。
派遣された私たちが脚光を浴びることになってしまったが、私たちの活動を支えていただいた名古屋市消防局の皆さん始め、全国の意を同じくする消防職員に感謝して、締めくくりとさせていただきます。