平成2年6月22日イラン地震災害

救助活動

イラン地震災害

はじめに イラン地震被害の状況
国際消防救助隊の構成と携行資機材
行動日程 救助活動 各国救助隊の様子
イランの建物の構造について
総括官日誌による補足(1) (2) (3) (4) (5)

4 救助活動

25日(日)の夜マンジールに入ってから、ピルクでの救助活動を終えた28日夕刻までの救助チーム(国際消防救助隊)の活動内容は表2のとおりである。
生存者の救出ができなかったことは残念ではあるが、地理的なハンディにもかかわらず各国救助隊と前後して現地入りして見劣りしない活動ができたこと、テントで野営しながら救助活動を行うという初めての経験を一人の故障者もなく乗り切ることができたこと、各国救助隊の中では最も奥地まで入って救助活動が行えたこと等は大きな収穫であった。

表2 救助チーム(国際消防救助隊)の活動内容

1 マンジールでの活動

  • (1)6月25日(月)夜8:00過ぎに、マンジールの軍の施設内にある各国救助チームのテント村に到着。野営。
  • (2)26日(火)朝、「マンジールでの救出活動はほぼ終わりに近づいているが、マンジールの東側の山岳地帯に未調査の村が200以上ある。現在ヘリコプターで調査中なので、生存者がいそうなら行ってもらうから、待機して欲しい」旨イラン側から要請あり。
  • (3)待機中に、マンジールとルードバールの被害状況調査。キャンプ近くのアパートの崩壊現場で救出活動。生存者発見できず。
  • (4)午後、「ヘリコプターで現地に入ってもらうかもしれないので、すぐ飛び立てるように準備して待機してほしい」とのイラン側の指示あるも、結局要請なし。
  • (5)27日(水)朝7:30からフランスチームと双方の機材を展示して交流中、イラン側より生存の可能性のある未復旧の村が山岳地帯の奥地でマンジールから90kmの地点にあるので、直ちに出発してほしい旨の連絡あり。村名「ピルク」、標高2,500m。
  • (6)10:00前、マンジール(標高1,500m)出発。武装兵士に護衛され、険しい山岳地帯をバスとトラック2台で山越え。路肩が地震で地割れし、所々崩れている絶壁の淵の山道をぬけ、3,000m級、4,000m級の山々を超えて、3:15、ピルクにたどり着く。ほとんど「アフガン・ゲリラ」の世界。

2 ピルクでの活動

  • (1)到着後直ちに現場調査。「生存者のいる可能性がある」という住宅の崩壊現場を3つ程調査するが、生存可能性と2次災害の危険性から判断して、救出対象を1件に特定。救出方法を定めた時点で日没。いずれにしろ、建物のつぶれ方がひどいので、生存者のいる可能性は小さいと判断。軍の補給基地で野営。
  • (2)28日(木)朝6:30、キャンプを出発。前日の打合せどおり救出活動を開始。生存者がいることを考慮して、現地で調達したパワーシャベルとブルドーザーを慎重に用いながら救出活動。

    • ◎ 救助対象はシェリフィー家というパン屋。父母と子供3人、祖母の6人家族。地震の際、母親と子供2人は逃げたが、残りの3人は逃げ遅れた。祖母の遺体は一部発見されている。父と子供1人が生き埋めとのこと。
  • (3)地震時に発生した火災が崩れた土砂に閉じ込められており、残骸を取り除くうちに発熱を強める。放水して冷却をしながら活動するが、発熱がひどく、このまま放置すると再燃火災となる危険性があるため、救出活動を危険排除活動に切りかえる。
  • (4)17:30、高熱で遺体も白骨化してバラバラになっている可能性が高いため、遺体捜索を断念。全員黙祷をして活動を終了。野営。
  • (5)29日(金)朝7:35ラシュトへ向けてピルク出発。