エルサルバドル地震災害
地震の被害状況 国際消防救助隊の構成等
携行救助資機材 出発までの動き
被災地での活動状況(1) (2) (3) (4)
各国救助隊の体制 第2次派遣隊
現地での新聞報道及び反響 帰国後の動き
外務省の支援
体験記(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
体験記(5)
今後外国語のヒヤリングぐらいはマスターします
東京消防庁 消防司令補 外囿幸夫
昭和61年10月11日、その日私は東京消防庁渋谷消防署で勤務、救急車で出向し消防活動訓練中であった。13時10分頃、突然、「東京消防から松涛救助」「松涛救助は至急帰所せよ」という無線指令が入った。意味不明ながらも指令通り帰所したら、エルサルバドルへの派遣命令であった。まさか自分が派遣されようとは!?驚きと、よーしヤルゾッという闘志が涌いてきた。急いでロッカーから救助服を取り出した。不足する下着類は隊員が近くのスーパーで買い求めてくれた。こうして慌ただしくも身支度を整え東京消防庁本部庁舎へ集結、そして出発式を終え成田へ向かった。
離陸までのほんの少しの時間に、家族と隊員へ連絡をした。妻は「そう、やっぱり行くの?」となかば覚悟を決めていた様子。隊員の方は、「隊長、頑張って下さい。後の事は我々に任せて下さい。」と言う返事に安心し、頼もしく思いつつ、間もなく出発となった。
ハワイ経由ロサンゼルスまでの機上では眠らなければという焦りと、現地の状況を想像する余り、なかなか寝つかれないままロサンゼルスに到着。そしてエルサルバドルでは空港が閉鎖され混乱状態という情報が入り、待つこと6時間で、4時30分の出発となった。日本緊急援助隊搭乗という事からグアテマラ経由が直行便となり、9時53分エルサルバドルのクスカトラン国際空港へ到着した。日本を出発してから33時間後であった。
大使館員の準備した車両に分乗、一路被災地サンサルバドルへ。車中、道路の亀裂や山崩れ、崖崩れが至る所に見られ、被災地へ近づくにつれ民家の倒壊、被災民の生々しい姿を目にして現地入りした。大使館に到着するやチームを2個班に分け、片や陸軍参謀本部へ。他の者は日本からの携行資器材の荷解きと点検作業にあたった。
政府からの要請は、ルーベンダリオビル(雑居ビル)と決定し現場へ。「あっあー、これはひどい。」今まで見た事もなければ想像もできなかった。ちょうど提灯を潰したようなそんな倒れ方である。それに両側には5階建ての今にも倒れそうなビルがあるではないか。そんな状況下でファイバースコープ、レスキューツール、エンジンカッター、削岩機等を駆使しての救助活動が連日行われた。
日中の気温は30℃以上であり、途中スコールに見舞われ、ずぶ濡れになったり、がれきのなかで検索中余震がありあわてて避難したりしながらも、朝7時から12時間にも及ぶ作業は続けられた。その結果各国との共同作業を含めて生存者2名、遺体8体を救出・収容する事ができた。
ホテルにおいては、その日の作業についての反省と明日の作業予定について検討を重ね就寝、夜中に余震があり飛び起きてドアを開放し、避難口の確保をしたり、時差の修正を怠ったばかりに夜中に起きたりもした。睡眠も十分でなかったのか疲労もかなり蓄積されてきた。そんな時、第2時派遣隊の「オーイ、今きたぞー」という声を耳にし勇ましい姿を目にしたら、何とも言えないうれしさがこみ上げてきた。また現場周辺には異臭が漂っており、差し入れのパンやカップラーメンは異臭とダブリ、とても食べられなかった。しかし、その気持だけはありがたかった。
いよいよ帰国の日となったが、まだかなりの人が生き埋めとなっており、後髪を引かれる思いもあったものの、我々は精一杯の可能な限りの活動をやったんだと自分に言い聞かせ、エルサルバドルよ、さらば、立派に復興してくれ、と願いつつクスカトラン国際空港を後にした。
現地での活動を通じて痛切に感じたことは、外国語の必要性と体力増強である。これからの日本消防は、急速に国際化時代が到来するであろう。せめて外国語のヒアリング位はマスターし、何時いかなる不測の事態にも対処し得る体力と気力・精神力を、日頃の訓練を通じて養っておかなければならないと感じ、今後この貴重な体験を各種の災害現場、隊員の指導教育に生かしていきたい。