エルサルバドル地震災害
地震の被害状況 国際消防救助隊の構成等
携行救助資機材 出発までの動き
被災地での活動状況(1) (2) (3) (4)
各国救助隊の体制 第2次派遣隊
現地での新聞報道及び反響 帰国後の動き
外務省の支援
体験記(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
体験記(1)
エルサルバドル地震の救助に赴いて
自治省消防庁 救急救助室長 古内 晋
昨年10月11日午前2時50分(現地時間の10月10日午前11時50分)、中米エルサルバドル共和国において発生した震度7.5(メルカリ方式、マグニチュードは5.4)の地震により、首都サンサルバドル及びその周辺において多数の死傷者が発生した(10月14日の現地の災害対策本部の発表では、当日までに確認できた死者は8,076人であった。)。日本政府は、この地震災害に緊急救助チームを派遣したが、このチームに国際消防救助隊が参加した。このことは災害時の国際協力という点で大きな意義があったことは言うまでもないが、日本の消防救助隊が海外の災害に初めて出動したということでは、まさに画期的なことであった。筆者は、この消防救助隊の総括責任者としてエルサルバドルに赴いた。連日、悲惨な災害現場に立って、エルサルバドルの人々の悲しみを自らの悲しみとしつつ、つらく厳しい救助活動に従事した。我々の救助活動はエルサルバドルの人々から評価され、大いに感謝もされたが、この経験は、国際消防救助隊の今後の活動に活かしていかねばならないと考えている。以下はその時の体験を思いつくままに記したものである。
1.成田空港出発まで
筆者が初めて地震の報に接したのは、10月11日の朝7時(地震発生から約4時間後)のニュースであった。当時注目を集めていたレイキャビクの米ソ首脳会談に比べると、被害状況がよく把握できない段階で、その扱いは小さかった。しかし、たまたま聞いた同時刻のFEN(在日米軍極東放送)のニュースでは、レイキャビク会談をさしおき、地震のニュースをトップで報じたことに重い胸騒ぎを感じた記憶がある。
エルサルバドルは、日本にとってはなじみの薄い国である。その後も新しい情報はなかなか得られなかったが、地震の被害がやはり容易ならざるものであることが次第にわかってきた。外務省からは、エルサルバドルの政府を通じて各国に救援の要請をしているという情報も伝えられた。
外務省では、まず、JMTDR(国際救急医療チーム)の派遣を決めたが、消防庁としては、救助隊の派遣も必要であると考えて、外務省と協議を重ねた。外務省からは、消防庁としては、どういう資機材を携行してどのような救助活動を行うつもりなのか、派遣人数は何人必要で携行資機材を緊急にとり揃えることができるのかなどについて質問があった。結局、救助隊を派遣する準備を進めてほしい旨外務省から要請があった時は、すでに12時を過ぎていた。(外務省に対して強調したことは、ファイバー・スコープという高度な捜索器材を携行して救助活動を行いたいということであった。がれきのすき間から管をさしこんで中の様子をモニター・テレビの画面で見るこの器材は、エルサルバドルにおいて期待どおりの威力を発揮した。切迫した協議の中で、ファイバー・スコープを持ち出したのは、当室の尾崎係長であるが、救助隊の派遣が初めて実現したのは、このような担当者の機敏な説得力のある働きかけに負うところも大きかったことを述べておきたい。)
思うに、この時まで、我々としては救助隊の派遣が是非必要だと考えて外務省と協議をしてきたわけではあるが、コロンビアの例もあって、本当に派遣が実現するかどうかについては、半信半疑のようなところがあったことも事実である。しかし、11日の夜には成田を出発せねばならなかった。救助活動が寸刻を争うものであるだけに、出発を1日でも先に延ばすことはどうしても避けたかったからである。
救助隊の派遣人員は、外務省との協議で6名と決まった。国際消防救助隊の登録人員である東京消防庁の職員5名に、総括責任者として筆者が加わることになった。携行する資機材は、既に述べたファイバー・スコープのほか、エア・ジャッキ、レスキュー・ツール、エア・ソーなどとした。これらの資機材をこん包して成田まで搬送した東京消防庁の苦労も並大抵ではなかったと思う。
なお、日本政府派遣の緊急援助チームは、団長の木本駐エルサルバドル臨時代理大使以下総勢11名であり、団員の構成は、医療部門3名、救助部門6名、災害調査部門1名ということになった。(その後の応援隊を除く。)。
2.成田出発から現地到着まで
成田出発午後9時35分の大韓航空機に乗りこんだのは、地震発生から約19時間後のことであった。飛行機が途中ホノルルを経由してロサンゼルスに着いたのがロサンゼルス時刻の11日午後8時10分である。ここで、エルサルバドル行きの飛行機に乗り換えたが、その出発予定時刻は翌日の午前1時。ところが、実際にこの飛行機がロサンゼルス空港を離陸したのは午前4時30分であった。理由は次のとおりであると聞いた。ロサンゼルスとエルサルバドルを結ぶ飛行機は便数も定員も少ない。地震の被害を心配してエルサルバドルに帰りたいと思う人が夕刻から航空会社のカウンターにわっとつめかけた。その整理に時間がかかったというのである。
我々は、この時間を利用して空港待合室でミーティングを行った。木本団長からエルサルバドルの国内事情の話があった。医療部門の藤井ドクターからは健康管理上の注意をうけた。打合せの中心は、エルサルバドルに着いてからの行動予定であった。とりあえず資機材は大使館の建物に運びこむことにした。エルサルバドルの政府に救助隊到着の連絡をとること、どの救助現場で活動するかについて政府との間で話をつけること、宿泊、移動の足の確保などについては大使館の協力をお願いした。木本団長の話では、エルサルバドル大使館は、建物はあるが、数年前に日本人が殺されてからは治安状態が悪いことを理由に、日本からの館員は全部引き上げている。現地雇いの者だけを残してコスタリカの大使館が面倒をみているが、今回の事態に対処するため、江藤駐コスタリカ大使みずから館員をひきいてすでにエルサルバドル入りしており、必要な手配をととのえているはずだということであった。
今から考えれば取りこし苦労ということになるが、しかし、ロサンゼルスでの待ち時間のあいだ真剣に考えたのはどのような服装で現地入りするかということであった。内戦で治安状態が悪いということを聞いたので、そろいの救助服を着た一団が他の国の軍隊と間違われたり、エルサルバドルの人々の神経を逆なでしないかと心配したのである(結局、木本団長の助言もあって、救助服を着用して飛行機に乗りこんだ。)。
飛行機に乗りこんだところで、我々はテレビの取材チームにとりかこまれた。エルサルバドルのテレビ局であるらしかった。木本団長がスペイン語でインタビューに答えていたが、好意的な雰囲気であったし、まわりの乗客からも、遠い日本から救助に来てくれてありがとうという激励を受けたりしてほっとした。そのうち機内放送があった。本来この飛行機はグアテマラを経由してエルサルバドルに行くことになっているが、日本の救助チームが乗っているので予定を変更してエルサルバドルに直行するという。エルサルバドルの人々の期待が胸にこたえた。後で聞いたところでは、50個近くあった携行資機材のロサンゼルスからの航空運賃は、全部無料にしてくれたとのことであった。こうして現地時間の12日午前9時50分、エルサルバドルの空港に到着した。空港には江藤駐コスタリカ大使が陣頭指揮で迎えにみえていた。地震発生から40数時間後、我々が成田を飛び立ってから約30時間後のことであった。
3.救助活動-(1)
携行資機材を大使館の建物に搬入する仕事は出迎えの人たちにまかせ、我々は車に分乗して、ルーベン・ダリオ・ビルの倒壊現場に向かった。そこは、最大の災害現場と考えられていた。ルーベン・ダリオ・ビルはサンサルバドル市内のほぼ中心部にある。空港からサンサルバドル市街までは車で約1時間ほどの距離である。はじめは、たんたんとした舗装道路が続いていたがそのうちに道路に亀裂が走ったり両側のがけがくずれている光景が現れてきた。
途中、サンサルバドル市の南部にあるサン・ファシント地区を通った。所得の低い人々の住む密集住宅街ということであった。れんがを積み重ねただけのような粗末な住宅街がもろくもくずれ落ち、放心状態でうずくまっている人々の姿に胸がいたんだ。
ルーベン・ダリオ・ビルのまわりにはロープがはられ、そのまわりを多くの群集がとりかこんでいた。とにかく、すごい惨状であることを直感した。ビル全体が完全にぺしゃんこになっていて、第2ビルの部分からはまだ煙が立ちのぼり、放水作業が続けられていた。4~5階建ての雑居ビルときいたが、その形跡は全くなかった。周囲のビルはちゃんと残っているのだから欠陥ビルということになるのであろう。地震発生時にはこのビルに600人ほどがいたが、その多くが、このがれきの下にとり残されたと聞いた。
ルーベン・ダリオ・ビルの災害現場を見たあと、陸軍参謀本部内にある災害対策本部を訪れ、日本から救助隊が到着したことを正式に通告した。日本の消防救助隊はどこで救助活動を行えばよいかについての折衝を行った結果、ルーベン・ダリオ・ビルを活動場所とすることになった。こうして第1日目の救助活動がスタートしたわけである。この日はもっぱらファイバー・スコープによる捜索活動を行った。現地の人たちが、日本の持ってきたファイバー・スコープを期待をこめたまなざしでくい入るように見ているのが印象的であった。夕刻から雨になったが、現地の人たちが雨よけのテントを作ってくれた。夜7時半ごろこの日の救助活動を打ち切ったのであるが、まわりで見ていた現地の人たちから、どうして引き上げるのかと聞かれて当惑した。長い旅行のあと、きょう一日の活動で隊員は全員疲労こんぱいしていた。これ以上活動を続けられる状態ではなかったが、がれきの下に肉親の姿を求め、外国から来ている救助隊の活動に期待をかけている人々の気持ちを考えるとつらいことであった。
次の日、我々は午前7時に現場に来て作業を再開した。そこへ、エルサルバドル政府の住宅省次官のバルディー氏がやってきて(彼が各国の救助隊の調整を行っていた。)第1ビルをスイス隊と協力して担当してほしいと要請された。スイス隊のやり方というのは、がれきのコンクリートに穴をあけ、下に掘り進んで要救助者を救出するという方式であった。ただ、やみくもにやっても効率が悪いので、彼らは救助犬を10匹以上も連れてきており、訓練された犬の嗅覚を頼りに、がれきを掘る場所の見当をつけていた。我々も同じ方法で救助活動を行うこととした。我々には犬がいないがそのかわりに、ファイバー・スコープがある。それぞれの国がそれぞれの特徴を生かした救助活動をすることが感動を呼ぶのであろう。スイス等は救助犬を連れてきてくれたし、日本は高度な機械を持ってきてくれた。いろんな国が最善の努力をして自分たちを救援してくれているというような記事が現地の新聞に出た。このようにして、この日の午後2人の生存者を救出できたのはまことに素晴らしいことであった。
4.救助活動-(2)
日本隊の人数は筆者も含めて最初は6人、あとから横浜市消防局の応援隊が3名来てくれたので9人になったが、それでも各国の中では最も少数であった。スイスは50人以上の人数で来ており、交替制でやっていた。我々が前の日、夜7時ごろまで救助活動を行って、やむなく途中で打ち切った場所を、次の日の朝行ってみると、スイス隊が夜のうちに引き継いで作業を行っていたりした。また、このようなこともあった。現地の若者から、ある場所を指差して、この下に自分の婚約者とおばさんがうまっているはずだから、ぜひ、がれきを掘ってほしいと懇願された。彼の話によると、そこはミュージック・テープを売っていた店だという。なるほど掘り進んでいくとおびただしいカセット・テープがでてきた。その若者も我々の作業に参加し、必死の形相で手伝ってくれた。しかし、夜の7時ころになると作業の打切りを考えねばならない。そこで、あとをスイス隊に託して引き上げた。次の日の朝行ってみるとすでにスイス隊の姿も、あの若者の姿もなかった。そして、女性のものと思われる多量の頭髪が残されていた。黒色とくり色の頭髪を見ながら、若者の顔を思いうかべ、何ともいえない思いにかられた。
人を助けるという目的は同じであっても、手段についての見解も同じであるとは限らない。ルーベン・ダリオ・ビルの第1ビルの現場に15日から、アメリカ隊が参入してきた。アメリカのやり方は、先に述べたスイスのやり方とは異なる。クレーンをもってきて上から順番にがれきを排除していくというやり方で、スイスやフランスはこれに猛烈に反対した。クレーンを使えば、がれきが再度くずれて、助かるべき人も助からなくなってしまうというのである。アメリカの主張は、スイスのやり方では効率が悪くて時間を浪費し、がれきの下に何百人といるか知れない人が助かるチャンスを逃してしまうというのである。双方の代表が路上で口角アワをとばして議論しあう場面も再三あった。筆者自身、外国の通信社の記者から、日本はどう思うかと質問された。筆者の私見では、どちらの方式も一長一短であり、状況に応じて使い分ける必要があるのではないかと思う。
連日の救助活動のため隊員の疲労が重なってきたときに、応援救助隊(横浜市消防局隊)3名が来てくれたときは非常にうれしかったし、心強かった。横浜隊の持ってきてくれた削岩機、エンジン・カッター等資機材はきわめて有効であったし、横浜隊の加わった16日、17日の2日間は総勢9人ではあったが、日本隊がこの現場の中心であるかのような観を呈した。将来は派遣する救助隊の人数をふやすことはもとより、救助工作車などをもっていけばもっと効果があげられると思う。
16日にはアメリカのシュルツ国務長官がルーベン・ダリオ・ビルの現場視察にみえた。シュルツ長官には、松永大使も同行された。筆者は、是非、松永大使にお眼にかかって、できれば日本隊の隊員を一人ずつ激励してもらいたいと思ったが、とにかく大変な警戒で、この人ごみの中で果たして大使にお眼にかかれるかどうかさえ覚束なかった。アメリカの救助隊の隊長の近くにいれば何とかなるだろうと計算したとおり、シュルツ長官についてきたアメリカの女性ジャーナリスト(若く、背の高い美人)がアメリカ隊の隊長の話を聞きに来て筆者に気づいてくれた。彼女が言うには、日本隊の活躍ぶりはさきほどこの国の大統領から紹介された。松永大使に是非あいさつされるべきであり、私が大使のところまで案内してさしあげるというのであった。大使にあいさつでき、激励のことばもいただけたのは、彼女のおかげである。大使と握手していると、筆者と大使の二人の手を、そばにいたエルサルバドルの政府高官が両手でつつみこみ、日本隊の活躍に対し感謝の意を表するという場面もあった。心残りは、時間の関係で、大使を日本隊のいる所まで案内できなかったことであった。
大使館の職員の方々の厚意あふれる活躍ぶりについても記して感謝の意を表しておきたい。先に述べたとおり、エルサルバドルの常駐館員はいないのであるが、この事態に対処するため、木本臨時代理大使を中心に近隣のコスタリカ、グアテマラ、ベネズエラの各大使館から応援が派遣された。東京消防局の救助服を着て現場で通訳にあたっていただいた人もいる。ルーベン・ダリオ・ビルの現場と大使館との間の通信手段は直接誰かが伝言内容を伝えるほかはない。そのため、運転手つきの車を1台チャーターして現場に常駐するというような配慮もしてもらった。昼食は災害現場で交替でとったが、連日、おにぎりなどのさし入れをしてもらった。夕食も連日のように大使館で日本食をだしてもらった。あるときは、グアテマラ大使館から大使夫人みずから腕をふるわれたといういなりずしやのりまきなどがどっさり届けられた。隊員が風呂に入らないと疲れがとれないだろうからと木本臨時代理大使が戦時中のドラム缶の風呂を再現しようと努力されたエピソードも付け加えておく。(また、国際協力事業団から派遣された高木さんと安藤さんに大変お世話になった事も忘れられない。)
我々の救助活動は、10月12日から17日までの6日間にわたって行われた。行方不明者の生存の可能性がほぼなくなった時点で、引き揚げてきたわけであるが、各国も同じような考え方であった。10月18日には、ほとんどの国が引き揚げて、残っていたのは、アメリカ、グアテマラ、ホンジュラスなどの国々だけであった。
今回の救助活動で教訓になったことは、まず、人命を救うためには、一刻も早く現地入らなければならないということである。現場の状況は、1日ごとに大きく変化する。出発までの状況については、かなり詳しくふれたが、やはり少々無理をしても11日の夜に成田を出発したことが良かったと言えるであろう。それから、人員的には、30数人は最低限派遣してもらいたいと思う。隊員の交替によって疲労回復が早く、能率が高まるし、夜間も救助活動ができる。現地の人だけではなく、スイスやフランスの隊員からも、日本はどうして夜間の救助活動をやらないのかと質問されて、答えるのがつらかった。また、各国の考え方が異なり、救助競争の様相が避けられないなかで、災害現場における主導権を確保するには、そこに投入された救助隊員の数、資機材等の実力いかんによるのであって、日本の救助活動に対する国際的な評価を高めていくためには、それにふさわしい人数の派遣が必要であると思う。
5.おわりに
我々は救助隊の活動は、現地では大変喜ばれ、2名の生存者の救出については、特に大統領みずから日本隊に感謝する、との言葉をいただき、また、私たちが帰る前に、是非、日本隊を特別に表彰したいという話もでたほどであった。現地マスコミも連日、日本の活躍を報道し、木本臨時代理大使も、現地テレビにたびたび登場された。一般の市民からも多くの差し入れがあったり、現場付近で、果物を買おうとすると、代金はいらないと、受けとらないこともしばしばあった。初めての体験とはいえ。救助にきて本当によかったとつくづく感じたが、それもひとえに、我々をバックアップしていただいた多くの関係者のおかげであると思う。今後の日本の国際消防救助隊の発展を願うとともに、関係者の皆様方に感謝の気持ちを申し述べて、報告の筆をおくこととしたい。