語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

村上 美保子さん 女性

右手には家族を、左手には友人を
これさえあれば人間は生きていける

 地震で、立っていられないほどの大揺れが治まった時に、一番先に頭に浮かんだことは「津波が来る。逃げなきゃ」ということでした。しかし、新地町で生まれ育った主人は「新地に津波が来たなどということは聞いたことがない。避難するならお前1人で避難しろ。俺は家の中を片付けているから」と避難を渋りました。しかし、子供のころに岩手県の三陸海岸に住んでいた私は、どうしても津波が来ると言う思いが消えませんでした。渋る主人を引きずるように車に乗せ、 避難して夫婦で一命を取り留めました。

新地町が大きな被害を受けた

貞観の津波が伝承されていたなら…


 後で知ったのですが、貞観の大津波(869年)は、今回の東日本大震災とほぼ同じ規模で起きていたのです。もし、その事が伝承されていたなら、これほど多くの犠牲者を出さずに済んだのにと、残念でなりません。

 犠牲者の多くは、主人同様に、新地町には津波が来ないと信じていた人たちでした。避難せずに、2階でコタツに入っていたのです。中には、せっかく避難したのに、寒いからと上着を取りに帰り、犠牲になった人も多いと聞きます。家族が他の場所に避難しているのを知らず、自宅に探しにいって、犠牲になった人もいます。

 歴史に「もし」はないといいますが、もし、貞観の津波のことが伝わっていて、かつては新地町も大きな被害を受けたと知っていたなら、多くの人の命が助かっただろうと思うと、本当に残念でなりません。


主人と私の命を助けた

「津波てんでんこ」の教え




 私があの大地震の時に「津波が来る」と思ったのは、小学生時代に、繰り返し「大きな地震のときには、津波が来るから高台に逃げなさい。家族が心配でも家 に帰ってはいけません。自分の命は自分で守るのです。家族全員が自分の命を守ったら、どこかで必ず会えるのだから、まずは自分だけでも逃げなさい」と、繰 り返し教えられたからに他なりません。新聞などで紹介されている「津波てんでんこ」の教えです。岩手県の沿岸部の小学校では、地震と津波のことを、繰り返 し子供に教えてくれました。そのおかげで、主人も私も命が助かりました。


津波の教訓を紙芝居に

子供たちはもちろん大人も興味を持ってくれる


 今、私は、被災体験を子供たちにするために、各地を回っています。それは、自分の命が助かったことと、多くの人から支援をいただいたことへのお礼の気持ちからです。私の話を聞いて、大きな地震が起きたときに、1人でも多く、避難してくれたならと願っています。

 そしてもう1つ、貞観大津波が伝承されなかったことを反省して、今回の教訓を紙芝居にして上演しています。この紙芝居は、福島県から送られたシナリオを、広島県の皆さんが紙芝居に製作して、プレゼントしてくれました。被災体験に基づく紙芝居の数は、すでに30本を越えました。紙芝居にすると、子供たちは、興味を持って見てくれます。意外に大人にも大好評です。紙芝居が、これから先もずっと残ったなら、東日本大震災の風化に、歯止めがかかると信じています。


多くの物より

支援してくれた人や応援してくれた人との縁や絆


 大津波は、経営していた旅館も、自宅も、根こそぎすべて持ち去りました。一時は、立ち上がれないほど落胆しました。しかし、握り締めていた拳を、そっと開いてみたら、右手には家族を、左手には友人を、しっかりと握り締めていました。物が無くても生きていける、人間は立ち上がることができます。今まで、多くの物を囲い込んでいた私は、そんなものは何も無くても、生きていけることを学びました。

 多くの物を失ったけれど、反対に、支援してくれた人、応援してくれた人との縁や絆、感謝の気持ちなど、学んだことや得たことも大変多かったと思っています。



(平成25年10月)



【新地町の場所】

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【JR新地駅】

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【JR踏切(橋脚のみの鉄橋)】

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【JR新地駅(停車中の電車)】

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【JR新地駅(停車中の電車2)】

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【JR新地駅(停車中の電車3)】

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【瓦礫だらけの田んぼ】

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【津波直後の町役場前(海から約2km)】

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【朝日館の位置】

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【朝日館1】

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【朝日館2】

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【朝日館3】

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【朝日館4】

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【破壊された堤防】

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【破壊された堤防2】

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