6m程の茶色い濁流に
ガシャガシャという壊される家々
今回の地震直後、気仙沼市の防災警報で当初6mの大津波という予報が出されましたが、海抜12mに建つ早馬神社は大丈夫だろうということから、境内には10名程の近所の方々が避難をしに上がってきました。
「6mの津波警報なのでここだったら大丈夫ですから。」と避難者を受け入れ、私は石垣の上から海の様子を見守りました。
地震から40分が経過して、第一波が襲来。最初は約2m程度の津波が波がほとんど引かないうちに押し寄せました。基礎のゆるいボロボロの建物や駐車場などが流されていくのが見えました。「あー、流されていくねー。」やや他人事のように見下ろしてると、次に6m程の茶色い濁流が押し寄せました。それと共に屋根まで浸かった家々が基礎からはがされ、ガシャガシャという壊される音とともに物凄い速さで流されていきます。
これは尋常ではないと思いました。それで、この海抜12mの境内は大丈夫だろう、と思いながらも、「念のためですから、上に避難しましょう。」と促し、さらに10m上にある神社に石段を登って皆を避難させました。
足元まで津波が…
跳べない妻へ「子供をほうり投げろ!」
避難者の中には足の不自由な方もおり、皆で担いだり、おぶったりしたので大変に時間がかかりました。
ようやくここだったら大丈夫だろうという位置まで避難を終えた時には、先程津波を見ていた石垣近くまで波が押し寄せていました。
私はその時、妻と当時3歳、2歳の子供達が果たして無事に避難をしただろうかと心配になり神社境内から離れた若夫婦の居宅へ走りました。すると、妻は津波の光景に驚き、一歩も歩けない状態になっていたので「何やってんだ、急いで上へ登るぞ。」と居宅の2階へ子供達とともに避難を促しました。しかし、2階だったら安心だと思ったのも束の間、建物の1階にもどんどん浸水し始めます。(このままでは2階まで到達し溺れ死ぬかもしれない。どうにか脱出しないと。)と判断し、1階と2階との間の屋根(1階の屋根部分)に登り、そこから2m程跳べば乗り移ることが出来る裏山の崖へ、上の子供を抱きかかえながら跳び移りました。何とか成功し、妻にも下の子供を抱きかかえて「跳べ!」と促しましたが、女性にはなかなか思い切れないようで、「跳ぶ自信がない。」と言うので、「それだったら子供をほうり投げろ、俺が受け取るから。」と叫びました。妻は私めがけて下の2歳の子供を投げ、私は落とすことなく受け止めました。そして、妻が1人で斜面を跳び、足元まで津波が来ていたものの、何とか難を逃れることができました。
歩くことの出来ないおばあちゃん
「波に呑まれただろう」と頭をよぎる
しかし、斜面を登りながらも、社務所脇の母屋に寝たままでいた、歩くことの出来ない当時97歳の寝たきりのおばあちゃんのことが頭をよぎります。(波に呑まれただろう。本当に申し訳ない。)という気持ちで斜面を駆け上りました。
第一波の津波は高さ15m位まで到達しました。20分程引き波になったので、それと共に私は、裸足のまま、ガラスの散乱する母屋へ向かいおばあちゃんを探しに入りました。建物の中はグチャグチャです。全ての物をかき分けながら奥の部屋へ向かいましたが、タンスから机から全てのものが散乱していて、なかなか前へ進めません。ようやくおばあちゃんの寝室へたどり着くと、タンスが2つ倒れた状態の上に、男性が5人位でようやく移動できる重さの電動の介護ベッドが浮き上がり引っ掛かかっており、その上に寝たきりのおばあちゃんが乗っておりました。まさに奇跡です。おばあちゃんのすぐ上には神棚と御霊舎があり(あー、守っていただいた)と感謝の気持ちが込み上げながらも、次第二波がいつ来るかもという恐怖のもと、急いでおばあちゃんを肩に担ぎ、同じ道をかき分けて何とか皆の避難場所まで戻りました。幸いなことに境内への避難者と家族は全員無事でした。津波は朝まで50回以上繰り返し、繰り返し襲ってきました。
亡くなった方の多くは
120年前に津波が来なかった地域の方々
唐桑地区では105名の方がお亡くなりに、または未だ行方不明ですが、その多くは120年前に起きた明治三陸大津波で津波の来なかった地域の方でした。ここには来ないだろうという油断、6mの警報だからという慢心が被害を広げたのは間違いありません。 天災には慢心することのない早めの避難が肝心です。つくづく身に沁みて感じております。
(平成25年10月)
被災時の様子
早馬神社ご案内