語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

熊谷 眞由美さん 女性

東日本大震から学ぶ


熊谷 眞由美


 東日本大震災から5年。ある日の新聞で「歴史は繰り返すという真理。次世代に未来を残す」という文言を見てこれだと合点した。


 沿岸部に地震が起きれば津波が来るとは言うものの、身近なところでも、祖母は明治の三陸大津波で両親・兄弟の多くが亡くなり、親戚を転々として、苦労して成人したことを繰り返して話していたし、大正生まれの母は、昭和8年の三陸大津波を経験している。しかし、その津波は現在自宅となっている所より下手のところまでしか来なかったので、今回もここまで来ないと逃げることを躊躇した。そして、私は中学1年生の時に昭和のチリ地震津波を体験。その後も大なり小なり何回か津波はやってきたが、我が家は海から遠いという意識で特段に逃げることもなく過ごしてきた。


 さて、今回の津波であるが、あの日の私は、母と二人で炬燵でテレビを見ていた。するとあの時刻午後2時46分。テレビがブチっと音をたてて消えた。私はすぐ台所のテーブルの下にもぐって母を呼ぶが「ダメダァ」と言うばかり。食器のガチャガチャなる音、母の悲鳴。少し揺れが治まってから母を急きたて庭へ。間もなく、防災無線が「大津波がきます。高台に避難してください。」と繰り返す。その時奥尻島の津波被害で大学教授が「昔の津波は大地に吸われたのですが、今はセメントやアスファルトなので、坂道でも道なりにどんどん進むのです。」と話していたことが脳裏に浮かんだ。


 我が家も海は見えなくても緩やかな坂道になっている。渋る母を「逃げるよ」と無理に車に乗せた。カバンには常時印鑑とキャッシュカード、ミニ懐中電灯、ホイッスルが入っている。念のため携帯電話の充電池とラジオ、防災頭巾を持ち、雨戸も閉めた。隣の行政区長さんは奥さんが車で出掛けているからと、足の悪い婆ちゃんと逃げることを躊躇。そこで単身赴任中の主人が置いたままの車を貸すことにして一緒に地区公民館に避難。その後10mを超える大津波という放送を聞き、さらに高い場所にある福祉施設・高松園に移動。1番先に避難したので次々に避難してくる人たちから真っ黒い壁のような津波が家々を流していったとか車ごと流されていった人がいるとの情報を聞く。その晩はガソリンの節約を図りながら車中泊。二女は仙台に買い物に行ったが、携帯は断続的。とにかく考えて安全に過ごしてと言うのみ。


 立川の主人からも安否確認のメール。登米市の中学校に勤務する長女も校庭が液状化しているので、唐桑はどうかと心配のメール。翌日は唐桑中学校で泊めてもらい、3日前から唐桑第二体育館で避難生活。二女は、仙台のバスターミナルに避難すると、気仙沼までタクシー相乗りを提案する方がいて、なんとかそれに便乗。その後は知らない人に乗せてもらったり歩いたりして唐桑に到着。長女も内陸部の道路を迂回してやってきた。主人は、千葉に住む義兄からワゴン車を借りて、ミニスーパーのように清掃用具、下着、水のいらないシャンプーまで満載し6日目に到着。



 そして、大規模半壊の自宅を直して住むことを決め、避難所で調理当番を終えると自宅の清掃に通った。避難所には御家族をなくされた方、もちろん家を流失された方がたくさんおられたのだが、みんな気丈に明るく振る舞い、大きな病気をする人もなく生活をした。お互いを気遣いながらの運命共同体だった。


 そんな中いち早く再建して自宅に戻ることは申し訳ないような思いだったが、高齢の母もおり、少しでも早く帰らねばという思いだった。床上120cm、大規模半壊の自宅に電気・水道の復旧した4月16日に戻った。電話が通じ、補修工事が一段落したのは8月13日のことである。


 今回の震災で避難所生活35日間私は夜に懐中電灯片手に、チラシや広告紙の裏に日記を付けていた。落ち着いてからパソコンを買い直すやすぐ、この日記と家族とのメールの交信記録を清書して家族に渡した。今、読み返しても切迫感に満ち、本当に大変な日々だと改めて思う。体験した自分でさえ記憶が定かでなくなっているのだから、ましてや被災しなかった人たちにとって「風化」は避けられないことなのではないかと思う。


 今回の震災で学習したことは、家族はいつも一緒にいるわけではないが(我が家も四箇所に別れて生活していた)お互いにその場でやれることを判断して動くだろうという信頼感が非常に大事ということだ。


 次に、隣近所との助け合いが大切だということである。すぐ裏のお宅は我が家より小高く井戸もあるので発電機でホースを繋ぎ、ご夫婦で20日間も片付けを手伝ってくださったことは感謝しかない。第三に学者の話・広報無線などに素直に従うことである。逃げることは恥ずかしいとか誰も動かないからなどと思わないこと。幸い私は学校に勤めていたので年に2回は避難訓練をしていた。他の人よりは防災意識が高かったのかもしれない。



 そして立ち直りが早かったのは、家族も全員無事で津波を見ずに避難したことが大きいと思う。私の地区は63軒が流失、7人死亡。現在は点在する11軒がなんとか助け合って生活しているが、我が家から800m先の海までは草茫々で跡地利用の計画もさっぱり。住民も高齢化が進んできている。しかしなんとか1人1人は前向きに生活している。


 総じてこの経験から学んだことは、まず逃げること、それが自分の命を守り、他人にも迷惑をかけないことにつながるということである。