語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

佐藤 トミ子さん 女性

東日本大震災を経験して


佐藤 トミ子


「逃げろ 津波だ」


「危ない 急げ お寺だ」


「高台にいけ 速く」


 人びとの 走りながら怒鳴る声が街路に流れる
「津波が来ます。避難して下さい。」
町の広報車が放送しながら走っている様子がみえる。普段は人影もまだらな街に広報車の音が慌ただしく響く。
「早く、早く、お寺に逃げて」
私も夢中でそう叫びながらお寺に向かって駆けあがって行った。
お寺の駐車場に着き、ふっと一息ついて目を海に向けた時、黒でもなく、群青色でもなく、今まで見たこともない、初めて見る海の色、普段の何倍もある高さの海が、堤防を越えて街に襲いかかって来る。誰もが茫然として、ただただ、たたずんでいた。


「ああ、おれの家が」
「おれの車だ。流れる」
「家が壊れる」
 並んで見ていた人達が声を上げる
「急げ はしろ」
 お寺への道を駆けあがってくる人々に高台から声が飛ぶ。瓦礫の山が次々と家々に襲いかかり、街の何もかも飲み込んでいく。屋根が動く。家が動く。車が流される。私は、あまりの恐ろしさに思わず背を向けてしまった。
「おい見ろ、津波が引いて行くぞ」
 その声に、再び街に目を向けると水の流れが海に向かっている。屋根も、車も、何もかも、海に向かって流れていく。
「海の底が見えるぞ、岩場の底が見えたぞ」
隣に立っていた漁師のオジサンが指をさしている。
「俺は、あそこにもぐって、蛸を採っていたんだ」
呟くようにそう言っていた。


 それからどの位の時間が過ぎたでしょうか
「おい見ろ、また来たぞ」
 人びとの指さす方向を見ると、盛り上がった海が堤防を越えて、町に押し寄せて来る。
「もうダメだ」
 隣に立っている人が再び呟くように言った。
 お寺の駐車場にいる大部分の人びとの顔にはあきらめの表情が浮かんでいた。
 瞬く間に辺りが薄暗くなり、雪がちらちらと人びとの上に降り注いできます。駐車場には沈黙だけが広がっている。


「おい、みろ、火事だ」
「あれは、支所の方角だぞ」
「近いぞ、消防車の音もしない」
「どんどん広がっていくぞ」
 暗闇が広がり始めた町に、突如燃え上がった火の手。沈下したかと思うと再び火の手が上がる。爆発音が聞こえる。いつ終えるともしれない光景が、昔見た地獄絵図を思い出させる朝の光が海の上を照らし始めた。


「私の母は、こちらにいませんか」
「俺の親父は何処ですか」
「息子を、見ませんでしたか」
 高台にあるお寺の駐車場には後から後から人々が身内の安否を確かめにやってくる。


 悪夢のような2日間が過ぎ3月13日の朝。私は、中学校の調理室で炊き出しのおにぎりを作っていた。


「いわき市からのお知らせです。これからいわき市でバスを用意しますので、このバスに乗って直ちに避難して下さい」
 この放送が流れると中学校に避難していた人々はたちまち避難準備に入り、私は一人調理室に取り残されてしまった。
 知人の車で避難したのは、湯本高校の体育館で、13日の夜11時ごろまで避難者が続き避難者数は500人以上になっていた。フローリングの床にラバーが敷いてあるだけの何もない体育館に500人以上の人々が、ひしめきあっており、一睡もせずに一夜を明かした。


 十分な食べ物も無く、配布されるのは、菓子パンや冷たいお握り、ペットボトル入りの水。私たちは暖かい飲み物が欲しかった。毛布も欲しかった。せめて、ご飯だけでも三度三度暖かいものが欲しかった。あまりの過酷さに避難所を去る人が続々と現れ、3月17日ごろには避難者の数は420人近くになっていた。
 この頃には、避難所にも少しずつ規律と秩序が生まれ、連帯感も生まれた。全国各地からの支援物資も届きはじめ、避難所にはプロパンガスが持ち込まれ、温かい食べ物も手に入るようになった。そうして私の避難所暮らしが始まった。


 あれから5年。この大震災の経験は、一生忘れることのできない経験となった。