語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

鈴木 久子さん 女性

前田ばあちゃんの防災意識の高さに驚く


鈴木 久子


 「鈴木さ~ん、これ見てけらいん。あんだが留守のときに津波が来たら、これさ掴まって逃げっからね。」と言って見せられたのは裏山の電信柱ほどの太さの木に結わえられたロープでした。びっくりしました。80才くらいのおばあちゃんですよ。防災に対するこの前向きな行動に感謝する気持ちさえ覚えました。


 


 宮城県沖地震が発生し津波が来ると予測されてから、私たちが住む小鯖自治会では役員の皆さんが防災の専門の先生方と何度も会議を開いてマップ作りや役割分担を決めたり、防災訓練をしたりしました。 なので、このような気持ちを持てたのではないでしょうか。そのため前田ばあちゃんは津波警報が出るたびに「鈴木さ~ん」と来るのです。1人ぐらしの人や体の不自由な人は誰と避難するのか決めてありました。だから、あの時もすぐに前田ばあちゃんが来て私の手をつかんで話さず震えていました。



 私は心の中で「これは津波がくるかもしれない。大切な物を運ばなくては!前田さん、この手離してくれないかなぁ」と思っていました。そのうち主人が帰ってきて「何してんだ早く逃げろ!津波来るぞ」といわれて防災グッズの入ったカバンだけ持って、前田ばあちゃんと車で逃げました。寒かったのでいつもの避難場所ではなく公民館まで行ってしまったのは、9日の地震で公民館に避難した人が居たのを思い出したからかもしれません。


 


 こうして私達は、自治会の避難訓練のおかげで助かったような気がします。と言うのも、私は高台のほうの地区で育ったので海の近くに来た当時は津波といってもあまりピンときませんでした。だから、宮城県沖地震が発生する確率が高いと言われてから津波の事を強く意識するようになったのです。地区の皆でグループごとに避難する場所を決めたり、子供達は育成会で発表したり、中井小学校と連係して通学時の避難方法を確認したりもしたのでした。具体的に役割分担していたのがよかったのだと思います。その一方でどうしようもない悲しい出来事がありました。



 それは家は高い所にあって大丈夫だったのに嫁さんが高田の実家に子供さんを連れて帰っていて被災してしまった事です。2人とも重体でした。だんなさんが付きっ切りで看病していて、足の悪いおばあさんが留守をしなくてはならない状態になってしまっていました。足が悪くては食料を都合するのも大変だろうと思い避難所からおにぎりなどを持って行って励ましあっていたりしたのに重体の2人が亡くなった後このおばあさんも亡くなってしまいました。そして息子さんも心労で亡くなってしまったのです。こんな事があっていいんでしょうか。本当につらくて悲しい出来事でした。


 


 震災時に何処にいたかによっても、明暗を分ける事があったのだと思います。


 


 あの時たまたま午前中に用事をすませて家に帰り、前田のばあちゃんが来て一緒に何も持たず早めに避難したために今の私がいるのだと思います。前田のばあちゃんに感謝です。あの時に何かを運び出していたら危険な目にあっていたかも知れませんでしたね。
 うちのばあちゃんも病院帰りに只越海岸の信号で吾妻さんに引き止められ、危機一髪で助かりましたが、家族が心配の余り急いだ人はそのままになったそうです。


 またこの5年の間にも亡くなったり、病気になった人が居ますが震災のことが関係していると思います。自治会の副会長の小野寺さん、還暦祝いの朝、倒れて亡くなった小山さん、魚屋の伊藤さん・・・
ご冥福を祈ります。
生きていることに感謝します。