東日本大震災の体験談
桑嶋 君子
2011年3月11日、14時46分、東北地方太平洋沖地震は、一千年に一度といわれる巨大地震で、日本における観測史上最大のマグニチュード9.0を記録し、震源地域は、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルの広範囲に及びました。
この地震により津波が発生し、場所によっては、波高10メートル以上で、最大遡上高が40.5キロメートルにも上り、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした地震であります。
その時、私は家の玄関に居て外に出ようとした時にぐらっと来たが、いつもの地震だと安易に考えていました。時折到来する地震はしばらくすると治まってしまう。このときもそう思いましたが、地震は長く続いてその中に茶タンスの戸が開いて瀬戸物の破れる音、いろんな物が落ちる音、門が倒れる、屋根の瓦が落ちてきて、ガチャンと破れる音、音音音、玄関の下駄箱のすいている所に頭だけ入れて恐怖心でガタガタ震えながら腰をあげることも出来ずしばらくの間、無心状態でいました。
頭が空っぽで何も考えることが出来なかった。息子が会社から帰ってきて、御袋大丈夫と声をかけられ、意識をとりもどした。悲惨さを見ても意識しないようにして。
まず子供たちが無事か確認をし、息子はスーパーに食料を求めて行ったが、人盛りで何も無い状態とのこと、本当に困った。水も出ない、ガス、電気も中断、時おり余震がある。1番困ったことは水がないことだった。飲む水がない。水を求めてあっちこっちと走りまわり、やっと井戸水を分けてもらった。トイレは川が近かったので川の水を汲んだ隣近所の方々と力を合わせて、リレー式に川の水を汲み上げた。一中夜が過ぎ、「無我夢中」から少しずつ冷静になり、情報もいろいろと入ってきた。一番心配してきたことが現実に。
原子力の事故が発生。地震と津波による被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、全電源を喪失して原子炉を冷却出来なくなり、大量の放射性物質の放出を伴う、重大な原子力事故に発展し、周辺一帯の住民は、避難を強いられた。とのこと。
私の家族も小さい子供が居たので避難することにしたが、まずガソリンがなく、長い行列が出来、数時間並んでやっと手にした。1日目は家に、2日目は不安もあったので、市の多目的集合所、アリオスに行った。皆、床に段ボールを敷き休んでいた。食事は新潟方面からの炊き出しがあって、感謝の思いで食べました。
放射性物質が流れているせいか空はどんよりとくもっていました。皆が疲れているのか、無口でした。私の家族は知り合いの居る白河へ3日目は行くことにした。白河方面は雪が降っていた。明かりが見えたので途中そこへ、寄ってみようと近づいて行くと集会所だったので、休ませて下さいと頼んだが、いわき方面から来た人はお断りと言われて、ショックでした。皆が放射線を気にしているのだとあらためて、その恐ろしさを感じました。
最終は知り合いの家埼玉へ行き、やっと落着き、生きていることを実感しました。恐ろしい数日間でした。
科学が発達しても、いつやってくるかわからない地震、それに伴う津波、普段は、寄せては返す白波も、今回は90メートルの真っ黒い壁の高さになり一瞬のうち間に押し寄せてきたそうです。私の家は海からは、ほど遠いので安心はしたものの、地震のツメ跡は大きかった。今回の震災による被害は想像絶するものが、あります。
警視庁救急災害警備本部の2011、8月11日現在のまとめによると、壱拾弐の都道県の死者15,690人、行方不明者4,735人、計20,425人(岩手695人、宮城11,809人、福島1,851人、他70人)です。
建築物の全壊、半壊合わせて40万人以上、停電世帯800万戸以上、断水世帯180万戸以上。統計を見ると相当数であることが分かります。
今年で5年になりますが、まだまだ復興は出来てません。不安が募ります。宇宙の力の大きさを感じます。偉大である。
人間の小さな力を合わせて、大きな絆を持ち自然の猛威を押えることが出来ることを期待します。信じて生きていきたい。
以上。
父と母の愛の形として、この世に生まれてきた時、オギヤの泣き声をあげ生命が誕生し、慈しみを受けながら育まれてきた命。
私の人生、僕の人生、誰もが一瞬にして大切な命を奪われるとは思った人は、いなかった。どんな思いで、天国に召されたことでしょう。それを思う時、悲しみが倍増します。
心からご冥福をお祈りします。そして天国で安らかに、安らかにお過ごしくださいませと。