語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

戸羽 芳文さん 男性

 当時、気仙沼市議会議員だった私は市役所で会議に出席していた。大地震発生後、すぐに議会は散会し私はそのまま市役所で一夜を明かすこととなった。翌日やっと地元唐桑町に帰り、住民の安否や地域の状況を確認できた。それからは崎浜集会所を拠点に崎浜自治会(自主防災組織)の一員として災害対策にあたった。夜は妻の勤務する高齢者介護施設に泊り込み応援にあたった。


 そして3月14日に議会が再開。かろうじて過半数を超えた本会議場で、付託された全議案を議決し気仙沼市議会2月定例会は閉会した。



 気仙沼市内は生き地獄の状況だった。鹿折地区はほぼ壊滅状態。大型漁船の第十八共徳丸は海から1キロ近く離れた陸地に打ち上げられていた。海には他にも黒こげになった漁船が漂っていた。浮遊物に点いた火は消えずに風に乗り対岸から大島や唐桑まで達していた。私の住む崎浜地区に到達するのも時間の問題だった。



 崎浜集会所に「津本海岸付近に火災発生」の緊急通報が入りすぐに現場に駆けつけた。浮遊物の火が風に煽られ山に燃え移ったのを、たまたま警戒にあたっていた地元消防団が発見し消火作業を進めていた。現場は車道から200メートルも離れており、皆で励ましあいながら可動式ポンプを運んだ。手が抜けるほど重たかった。もし山に火の手が広がったら、次々に飛び火し崎浜は全滅してしまう。何としてもここで、日が暮れるまでに消し止めなければならない。緊張が走った。



 広域消防隊が到着し、海水を使った放水で山火事は何とか消し止めることができた。しかし、海辺の浮遊物はくすぶり続けている。これを消さなければいつまた燃え移るか分からない。海に向かって放水するが、なかなか目標に届かない。それでも消防隊による懸命な作業により火を食い止めることができた。久々にあんなに重たい物を持ち運んだが、私には不思議と疲れも体の痛みも出なかった。まさに火事場の馬鹿力であった。



 集会所には非常用発電機が備えられており、震災当日は200人の人たちが避難し、テレビで放送される映像も見ることができた。しかし燃料に限りがあるため、電気の使用は制限せざるを得なかった。避難者は2日目に100名に減り、3日目は50名ほどになった。


 自宅が無事だった人たちは徐々に家に戻って行った。水や食料の配給が始まったので食べることは何とかメドがついた。殆どの世帯がプロパンガスを使っていて、それでお湯を沸かし簡単な料理を作ることができた。昔使っていた井戸水は沸かして飲めたし、洗濯水としても重宝した。


 だが、そうでない世帯もあった。支援物資を配給するため手分けして一軒一軒訪問していたら、軒先で焚き火をしているお年寄りがいた。ガスコンロが痛んで使えないので、その火でご飯を炊くのだという。「やめてくれ」と言おうとした言葉をぐっと呑み込み、「火の元に気をつけてくださいね」と声をかけて帰った。このままでは火災が心配されることから、ガス業者に相談した。しかし店は流されガスコンロの在庫はどこにもないという。私はすぐに自宅に戻りガスコンロを外して、そのお年寄りの家に設置してもらうようにした。地域内には高齢者が多く老々介護の世帯もあり、ライフラインが途絶えたことによる二次災害の心配も多々あった。専門機関による早期の対応が求められていたのだ。


 唐桑町では気仙沼市唐桑総合支所が防災拠点となっていた。3月15日の夜、自治会代表者を集めての会合が持たれた。この先どうなるかわからない不安感から、切羽詰った意見が飛び交った。「我々被災者に対し行政は何をしてくれるのか。答がないのなら私は今すぐにでもこの町を出て行くつもりだ」という発言もあった。私は「市には災害援護条例があり、国には激甚災害法もある。これだけの大災害に国が何もしてくれないわけがない。必ず支援の手を差し延べてくれるから諦めずに頑張りましょう」と語りかけた。こんな時こそ地域が一丸とならなければと痛感した。



 翌日、崎浜自治会で会議を開いた。現役を引退したとは言え、若い頃から意気盛んだった海の男たちは、瓦礫に埋め尽くされた海岸を見るに見かねていた。早く片付けなければ…という意見も出たが、私はそれをすべきでないと否定した。


 仮に作業を行うとして、それに携わるのは殆どが高齢者である。作業中に万が一のことがあったら取り返しがつかない。せっかく助かった命を大切にしなければならない。時が経過すれば必ず救いの手はやってくる。私たちが今なすべきは、その時を待つことなのだ。



 この年は3月になっても雪がちらつく寒い日が続いていた。夜は暗くなる前に夕食を終え、早く寝るようにした。早く寝ると、夜中の12時頃に必ず目が醒めた。ろうそくの灯りで何かを書きとめようとした。こんな大災害の記録は何らかの形で後世に伝えるべきだと思ったのだが、その思いとは裏腹にまとまった文章にはならなかった。書けたのは断片的な走り書きであり、日々垣間見た情景のスケッチ画だけだった。描き疲れるとまた眠りに落ちた。電気が来るまでの1ヶ月間は毎日、夜が2度あったと私は思っている。



 しかしそんな厳しい状況に耐えられたのも、地域に住む人たちの支えあいの力に他ならない。水道や電気などのライフラインが復旧したとしても、災害からの復興はまだほんの入口に過ぎないが、これからも自主防災組織の一員として皆と協力し合い、古里を守り抜いていかなければならないとあらためて心に誓った。