東日本大震災における体験談
小山 利博
東日本大震災から早や5年になりますが、私は当時震災月の31日に定年退職することになっていました。決算月という事でその準備に追われ忙しい最中の突然の地震に、机の上のパソコンや書類を押さえることに必死で、余裕などは一切ありませんでした。
地震が落ち着き始めた頃、私はようやく「経営していた飲食店」のことを思い出しました。その店は、職場から500ⅿほど離れた町内の海沿いの場所にありました。海の状況確認と一緒に店舗も見ておこうと考えた私は、すぐさま車で向かうことにしたのです。いつもと変わらない道のりを数分も走ると、目の前に見えたのは濁流と共に押し寄せてくる数台の車輌でした。もう少しで店舗が見える!という所まで来ていたのに…私は店舗に向かう事を仕方なく諦め、職場へ戻ることにしました。職場は地形上津波の影響がなかったので、その場を拠点として現状を確認することになりました。
そして今度は、上司を車に乗せて近くの高台へと向かいましたが、やはりその場でも津波の脅威を目の当たりにすることとなったのです。津波は、民家はもちろん倉庫や養殖施設を『ギリギリ・バリバリ』という音を立てながら、容赦なくなぎ倒していきました。それはまるで『映画のスクリーン』を見ているかの様な無残な光景で、その様子をただただ眺めるしかないその時の私は、情けなくて悔しくて涙が出ました。そして、気掛かりだったのは店で仕事をしていたはずの家族の安否でしたが、職場を離れるわけにはいかない私は、それから間もなく職場に戻り職員と共に今後の対応策を協議しました。
建物があっても停電、断水には変わりはなく、厳しい寒さの中でストーブの灯油は残り少なくなる一方でした。数名の職員が自宅から持ち寄った『乾麺のうどん』を調理し、皆で分け合って食べ、当日は解散することとなりました。
その時は「少しのうどんでも空腹は満たされた」気がしたし。「ようやく帰って家族と会える」とホッとしました。「でも?ホントにお母さんだぢ大丈夫なのが?」とその時になって改めて家族のことが気になり、不安を覚えました。
実際、自宅は高台にあったので、被害は少なく (瓦の落下程度) で済みました。当日とその翌日は、避難所にお世話になりましたが家屋の残っている私たち家族(当時93歳になる両親と私はじめ4人)は停電と断水の続く生活を余儀なくされました。生きるためには食べること!納屋の奥にしまってあった釜土を出して来て、津波で流れ着いた瓦礫から木材を集めて来ては、薪にして燃やし、ご飯を炊きました。釜でご飯炊きをしたのは50年ぶりでしたが「何とかしなくては!」という切羽詰まった状況が功をそうしたのか「カン」はすっかり戻っていました。やはり経験したことは活かされるものだと改めて感じ、両親に感謝したものです。
そして翌日の12日には、あの時確認することの出来なかった店舗の在った場所に向かいました。「店…土台残して何にも無いよ。」と家族から聞かされていましたが、実際にその光景を見ずにはいられませんでした。もちろん嘘などではなく、店舗の在った場所は土台ばかりで、その周辺には瓦礫が散乱していました。所々に見え隠れする見覚えのある瓦礫と化した品々を見ては「あいづおらいの店の備品だいが?あいづは商品のお酒が?」と一つ一つを思い出しながら、何もなくなってしまったその『場所』を歩いて回りました。
しかし、そんな状況でも時間は待ってはくれません。辛くても、大変でも、生かされた限りは生活していかなければならないのです。私は、退職日までの数日間を自分に出来る精一杯でこなしました。職員たちが必要としている品を調達したり、今後の職場や、施設維持のための調査など仕事は山積みだったのです。
そうこうしている間に、私は退職日を迎えました。この様な状況での退職には正直後ろ髪を引かれる思いもありましたが、仕方ありませんでした。しかし、その数日後には小型漁船の瓦礫撤去の事務を依頼され、再びこれまで通りの職場で、一年六カ月の間復興に携わる仕事をさせていただきました。被害全体の状況報告という仕事内容でしたが、初めは何から手を付けて良いのか分からないほどの酷い有様でした。半年を掛けて漁場の整理を行い、その後の一年で漁場区割りから、整備までにこぎつけたといった具合でした。その間には、数多くのボランティアの方々のお力添えや、カキ養殖の支援という形で広島のカキ生産者の方々が直接足を運んで下さるなど、今の唐桑が在るのも、その方々のおかげです。ご協力くださった皆様には、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。復興にはまだまだ時間がかかると思いますが、どうか震災を忘れることなく見守っていただきたいと思います。必ずや『震災前の唐桑』以上の元気な町になってみせます。