私の3.11 これは夢!
大谷 慶一
それは突然だった。経験した事のない大きな揺れ。外周を点検後家の内へ。家具類は散乱し、テレビは映らない。再度外へ出て車のラジオを点けた。3mを越える大津波が来るので高い場所へ避難する様繰り返し呼び掛けていた。3mが6mに、6mが10mに、時間が経つと共に情報が変わってゆく。
小名港への津波到達予想時刻は「3時10分」のアナウンス。腕時計はまさに3時10分を指していた。私の家は海岸から200m位。津波の来る様子は、まったくない。「今度も大騒ぎだけで津波なんて来ネーベ!海見て来っから!」海へ向かった。道路は瓦礫が散乱し、石垣が倒壊。通行中の人が居たら危険だと思いながら、往くときはそんなことを考える余裕があった。防波堤の階段を一段二段上がった。瞬時に体は家に向っていた。10mくらい戻って急に立ち止まった。
「夢」
夢だと思った。
引き返してもう一度堤防の階段を上った。「これは現実だ」海は土色に濁り、磯は干上り、海底は遥か彼方まで見えている。普段砂浜に押し寄せる白波が、沖に向っている。「逃げろー!とんでもネーものが来るゾー!荷物持ち出しる隙ネード!天狗様さ昇レー」大声を張り上げながら家まで走った。
自宅前には妻。妻の腕には愛犬2匹。近所のお年寄2人。「逃げろー」「おばあちゃんはどうすんの!」私は足が不自由で歩けないおばあさんを背負った。左手を妻が、右手をもう1人が持った。天狗様への階段を目指して数歩走ったところで、ずり落ちてしまった。背負い直そうとして振り返ったとき、隣家の屋根に砂煙がたった。「来た!」おばあさんは置き去りにして、階段に向かっていた。あの時のおばあさんの目が、心に焼き付いたまま、忘れられない。妻達は手を離せないでいた。「早く手離せ!後見んナ!」妻は2匹の家族と共に石段を掛け上がった。2人は呑み込まれた。
背負った1人は数日後発見された。もう1人は数10分後に奇跡が起った。石段を10段目まで駆け上がった時、背筋にゾクッとした感がして振り返った。「あれ、鳥居が無ー!」そこには、60年間見慣れた、石段を昇る前に潜った筈の鳥居が消えていた。数日後に気づくことになるのだが、そこには流れ付いた家があり、手の届く所に屋根の庇があったのだが、その時の私は、その状況が認識出来なかった。そしてその時の音の記憶が全くない。8mを越える津波の音。家が壊される音。家の中にはまだ逃げていない人がいる。その阿鼻地獄。海の底を見てから階段を掛け昇った時までの記憶の大部分を失ってしまった。ともあれ私は助かった。
しかし、私の海に見に行ったことは、褒められない行動だし、深く反省すべきと思う。普通はその時点で死んでいたであろう。
今は、私は何かとてつもないものに因って「生かされた」そう思っている。気付いた時は、瓦礫と真黒い水の中を、四ん這いになって、さ迷っていて救出活動を始めていた。最初に助けたのが、冒頭に挙げた奇跡のおばあさん。後日談で、水に撒かれた瞬間気を失った様ですが、水中で気付き「こんな所で死んでたまっか!」と思ったら気力が出て来て、大きくもがいたら水面に顔が出た。その時、その場所に私が居た。彼女だけでも助かった事で、私の心は随分と楽に穏やかになります。
午後5時ごろ、瓦礫の内から微かな呻き声。レスキュー隊員三人と屋根瓦を剥す。天井板を破る。梁に写真が飾ってあった。母の遺影だった。なんと流された我家だった。素手で瓦礫と格闘する。「居たゾー」30cm以上ある櫻の大黒柱の下敷で、逆様になって、左手は異様な形で挾まっている。肌はアケビ色。柱を切断せねば出せない。鋸が要る。「小学校に行けば道具あっペー」上に向って叫んだ。待った。届いた。擦り減った刃の鋸二丁とバール。最初の一引き。柱に白い筋が付いただけ。それでも気力を振り絞って始めた。4人交代で全員ヘトヘト。誰も口も利けない。私は必死に堪えていた。今、低血糖になったら、昏睡して助からないだろうな。ぼんやりと考えていた。ようやく一ヶ所切断して、引張り出そうとしたが、どうやっても出せない。呻声もだんだん小さくなってゆく。やはりあと一ヶ所切断しなければと判断したときの脱力感。今思い返してもゾッとする。救出したのは夜11時ごろ。翌朝、隊員に耳打ちされ、あの後の10分位で息を引取りました。悲しかった。しかし、あの時は全員が全力を出し切ったと思っている。
早朝、お宮に居た全員に住所と氏名を書いて頂いた。49人。その時私は、今ここに居る49人が、生存者の全てだと思い込んでいました。この大津波では多くの別れがあり、沢山の人との出会いもありました。ある人は、海は恐い海は嫌いと言います。自然を畏怖する気持ちは大切な事です。でも、海を嫌わないで下さい。私達は避難せずに多く犠牲者を出してしまいました。逃げるべき時逃げる。それが肝要です。