語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

山﨑 不二子さん 女性

 「あの日、あの時の私は」平成23年3月11日金曜日晴れ(夕方になって小雪)で、釜石市片岸町の自宅に居り、早く高台に避難したので住家等は、全壊してしまったけれど、命だけは助かって今に至っております。14時46分の地震によりゼロからの出発の始まりでした。


 まずその日の朝からの行動及び様子から記憶に残っている限り、思い出して書きます。1週間後の3月17日は、短大に通っている二女の卒業式の出席と引越のため、私と主人は東京に行くことも楽しみにしていて色々ルンルン気分で準備をしていました。4月1日は、介護施設に入所していた義母が3月31日までの期限のため在宅介護になるので部屋を片付けたりこまごま用意していた。主人は、午前中二女のアパートの借りる際の書類を送るため、郵便局、銀行の手続きやらで、釜石市街に車で行っていて、12時30分頃帰って着た。私の弟が10時頃来て娘の卒業祝いにと届けに来て2万円入った祝袋をガラスケース入りのおひな様の上に置いていた。


 去年漬けた梅漬けがどうなっているか樽から出して味をみたりして家事で忙しかったので昼食を13時30分頃にしながらテレビを見ていたら14時46分頃に地震があった。そのままコタツで地震の様子をうかがっていたが、ガタガタと大きく揺れだしたので、コタツから出てテレビを押さえたり、神棚からローソク立が落ちたり、テレビの横にあったケースのおひな様が倒れるのを見ては慌て、騒いだり怖がったりして、どうしたらよいのか迷っていたらゆれが落ち着いた。


 すぐ外の広報の知らせで波の高さが3メートルの津波の防災無線を聞いてまもなくテレビがバツンと消えたとたん2回目の地震が起きた。別の部屋の仏様のお茶や水がこぼれていないかどうか見に行きそれを台所に片付けた。裏庭に出て、外の様子を見たら道路向かいの葬儀会館やガソリンスタンドにはお客様がいたが逃げる様子はなかった。私は、3メートルと聞いていたので2階に避難しようと階段を上がろうとしたら主人があわてて怒鳴る声で「2階じゃダメだ、はしたな地震じゃないから車で逃げた方がいい」と外に出て車で逃げる支度をしていた。私はどうしても頭が3メートルが離れなくてこの家に波が来る頃には、玄関近くにピチャピチャと来る程度だと思ってのんきに、ゆっくりそばにあったいつものバックと黒のジャンパーを着た。


 でも裏山は寒いかと思って防寒ズボンと短めのブーツを穿き、裏と外の戸に鍵をかけ主人にせかされながら車に乗った。裏山の避難指定場所の「道地沢」に行くまでの道路は、すごく渋滞していて右折するのになかなか曲れなかったが、対向車が止まってくれたので、おかげ様で早めに着くことが出来た。その曲るまでの間、車中から見ていた時、外の回りでは、左側から近くにあった自動車学校の生徒や先生たちが走っていたし近所の老人夫婦さんものぼり坂を歩いていた。(この時までもまだ想定外の津波がくるとは思っていなかった。)避難場所についたらもうですでにたくさんの人がいた。それから30分くらいしたら、根浜海岸の右奥から高い白波が立っているのを見た。津波が来た様子なので下から見たら、まだ自宅前の葬儀会館やガソリンスタンドに人がそれぞれ2~3人いたので早く逃げる様にと山の上から皆で叫んだ。


 そのうちに大きな津波が襲って来て、ゴルフ場の網やポールが倒され、流され、自動車学校の練習車も流されるのを見たがそれらからは何もかもが津波にのまれて流されているのを涙も出ず声も出ず、ただただどうしようもなく見ているだけの状態の私でした。それから我に返ったのは、寄せ波、引き波が何回もあり、大浜渡橋に人が2~3人いるのを見たときでした。一人は屋根の上に乗って流されていたし、もう二人は橋の欄干に捕まってくる波を避けていたので、山の上から皆で「橋にあがれぇー橋に登れぇー」と何回も叫んだ。


 今度は、目の前の下の促進住宅にも段々に水が上がって深くなり、人が2人2階から3階、3階から4階と津波が上がってくるのに追われているのを見たので又皆で「5階に上れぇー5階に上れぇー」と叫んだ。あの山の下の全体海と化した場面は、目に焼きついて離れないし忘れられない光景で言葉では言い現せられない出来事でした。16時~16時30分頃には、辺りは真っ暗になり雪もチラチラ降って来て寒かった。200人ぐらいの人が避難し、ライフラインは寸断されたので懐中電灯やライターを持っている人が照らしながら周りにある木を折って集めて2ヶ所に焚火をたいて暖をとった。もちろん下の状況は真暗くて何も見えなかった。焚火を囲みながらほとんど知らない人達だったけどそのときだけ一瞬、みんな身も心も温まった様子に見えた。


 幸いにも、ここの避難所は個人の土地なので、畑小屋もあったし、沢水をためておく水槽があったので水はそこを利用させてもらったので、お湯を飲むことができた。又そこには老人施設があったので、水道水は出なかったけど、トイレは借りれた。夜食は辺りの住民の人や介護施設の従業員さん達の好意と計らいでみんな白い小さなおむすびを1個ずつ食べることが出来た。ほとんどの人達は焚火を囲んで朝まで過ごしたけれど私達数人は、介護施設の廊下で雑魚寝することが出来た。


 平成23年3月11日金曜日は以上です。それ以降から今現在も避難生活は続いており毎日がドラマです。