語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

庄子 ヤウ子さん 女性

東日本大震災と原発事故

庄子 ヤウ子

東日本大震災と原発事故


           庄子 ヤウ子


 あの日、3月11日、2時46分。私は自宅の茶の間にいた。今までに経験したことのないような揺れが襲った。慌てて外へ飛び出したもののどうしていいかわからなかった。瓦が飛び、池の水は波うつ、家の中の物が落ちガラスが割れる音がする。猫が飛ぶように逃げていくのが目に入った。


  激しい揺れは何分続いたろうか、何度も何度も襲ってきた。どうなってしまうのかと恐怖に襲われた。どうにか靴を履いて家の前の梨畑で仕事をしていたMさんの所へ行った。Mさんも地面に座り込んでいた。「どうしよう、ここなら梨の木の根が張ってるし、棚もあるから大丈夫だね」私はホッとして木の下に身を寄せた。Mさんのご主人が熊川の家の方が心配だからと軽トラックで自宅へ戻った。迎えに来たご主人から熊川の浜っぱたが津波で全滅だって。


  いまだかつて聞いたことのない現実に不安が募った。4時近くに次女が富岡の職場から帰ってきた。熊川の橋の所で消防団の人に津波がくるからこの上の橋を行くように言われてきたと、その数分後、その橋を越えて津波が襲った。危機一髪だった。それから間もなく夫が帰ってきた。とにかく家族が無事だったことが嬉しかった。5時頃防災無線が津波が来るから6号線から東の地区は中央台の総合体育館の避難するようにと報じた。長女の無事も確認できて総合体育館に行った。人と車が溢れ、役場の職員もいなくて指示、誘導などは何もなく何の情報も得られなかった。


  ここにいても暗くなるばかりなので私たちは駅前の長女の居酒屋へ行った。暗闇の中、石油ストーブで暖をとり、横になることもできたし体育館にいるよりは良かった。夜中に何度も地震がきて眠ることは出来なかった。12日、6時頃、防災無線で、万一の原発事故に備えて、大野地区の住民は役場駐車場に集合、バスで西方面に移動するとの広報があった。役場に行くと住民はすでに集まっていて、誰もがどうなるのだろうと不安でいた。


  バスは10時過ぎても来ない、住民は行政の何がどうなっているか判らないやり方に不満を募らせていた。「原発が危ないので町民全部が避難するようだ」というのは確かだった。バスの到着が予測できないので大きい車のある人は自力で西の方、田村市に向かうように、そこの誘導者の指示に従がって避難してください、と役場職員の説明があった。10時半ごろ私たちは長女夫婦と5人でとりあえずの物を詰め込み、国道288を田村市に向かった。


  都路、常盤はどこの避難所も一杯で先へ先へと走ってようやく船引小学校の体育館に入ることが出来た。そこもすでにごったがえしの状態、ここに居ることの証明に名前を書いた。ようやく5人分のスペースを確保、顔見知りの人をみつけてはホッとしていた。ここの地区の人達から布団、毛布などの物資が提供された。14日、そこを全員撤去で田村市の工業団地にあるデンソー新工場へ移動となった。そこは2千人が収容可能な広い所ですでに大勢の人がいて、私たちは決められた場所に家族分のスペース5畳くらいを確保した。ようやく確かな情報が得られるようになった。


  原発が爆発したこと、三陸~いわきまで海岸線が津波で壊滅的は被害をうけたこと、未曽有の大災害だったことに驚愕した。「原発の安全は神話」だった。大熊町には戻れない、家族誰もが言い知れぬ不安の中にいた。デンソーでは煮炊き設備は無く自衛隊の炊き出しに頼った。いろいろな理不尽なことに「これが人間の生活か」と夫はぼやいたが、津波で何もかも、命まで奪われた人達のことを思えば、まだましだと思った。


  「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ」デンソーでの毎日でした。大熊町は役場を会津若松市に移動するというので4月4日デンソーを出た。割り当てられた市内の民宿「たきざわ」移った。その夜、敷布のある布団に顔を埋めて娘は泣いた。いつまで続くか判らない前代未聞の避難生活、仮設住宅に移る6月26日まで何もすることが無い毎日というのは辛いものでした。仮設住宅に移ってからは夫は公園の空き地を開墾し耕畑つくりを始めた。「やることがある」幸せ。仮設住宅での生活は人とのつながりが大変でもめごとや中傷もあり、皆一緒だから良いというものではありません。大熊町の先の指針も示されないまま、4年目の冬を迎えた。私たちは中間貯蔵地域になるため、苦渋の決断でこの会津に土地を求め家を建てた。


  私たちを暖かく迎えてくださった会津の方たちと共に、これから生活していくのも悪くはないと思う。ふと、この震災で失ったものの大きさに潰されそうになる。家や物は勿論、これまで培ってきた親戚づきあい、兄弟関係、友達関係など、なにものにも代えがたいと信じ、助け合い守ってきたものが、どうでもよいことになってしまったような気がして悲しい。そしてそれぞれの場所でこれから先「生きなおし」を始めなければならない。