語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

織笠 清さん 男性

一生に一度はイヤダ

 盛岡の帰り道、玉山区を自動車で走行中「あれあれ!」と思う内にひどくなり、経験は無いがまるで船の上で運転しているように思った。



 国道の対向車も、ハザードランプをつけて次々と停車している、近くにパーキングがあったので、そこに車を寄せた。


 どのくらい時間がたったのかよく分からなかったが、気持ちだけが急いでいた。



 早坂トンネルを出て、公衆電話から甥に電話して、認知症の進んでいる母を避難させてくれと頼んだ。電話のベルは目覚ましのごとくなったとの事。



 岩泉の妹夫婦も、海に近い小本地区に行ってくれていると思って安心し帰宅を急いだ。



 岩泉龍泉洞インターチェンジの所で、警察官が交通誘導をしていた。三陸鉄道小本駅の所まで津波が来ているのでこれ以上進めないという。高台の避難所に行ったら、マイクロバスに母と甥が乗って岩泉に向かうところだった。



 「母から離れないでくれ」と頼み安心した。夜は妹夫婦の家に世話に成り買ったばかりの反射ストーブに火を入れ灯りは小さいLEDの電灯を持っていたので天井に向け周囲はうすぼんやりしていたがこれで良しとした。



 2日してからようやく小本地区に入ることが出来たが、人の作った物は総て壊され、無残な状態となっていた。津波と言う自然災害の威力の凄まじさを思い知らされた。



 あまりの被害だと悲しみの涙も出ない。



 思い出のたくさんある我が家はどこへ行ったやら。



 60年近い家なので、石の上に土台が乗っていただけだから、何も残さずきれいに持っていかれた。隣の母さんに、自分の家の玄関のタイルだと言われた。たどって行くと我が家の風呂のタイルの色で分かった。



 やがてガレキを除けながら道路を通す工事が始まった。毎日通い、靴が下駄箱の何段目にあった思い行ってみる橋のところに来て、家が無かったと思い込みは頭からはなれずに自分自身迷走していると思った事も有った。



 そのうち家が見つかり、2階の布団や以前亡くなった妻の和服ダンスがひっくり返っていたが、全然よごれておらず、桐のタンスは良いというがこう言う事かと、改めて知った。



 3月11日の朝一階に寝ていた布団一式が押入れの中から汚れずに出て来た。



 家の状態は全体ではわからなくても部分では知る事ができた。



 孫達が柱に背たけの傷と日付も見つけることができた。



 柱一本だけでも欲しかったが次々に工事が進み、思い出も記録も壊され処分された。

 思い起こせば、父は次男で長男夫婦孫とで、祖父と同居していたが、昭和八年の「三陸大津波」長男親子3人命を取られ、その後、父が継承してから80年、その息子の私が平成の「東日本大震災、大津波」の被害に遭った。



 これから一歩ずつ前に、一日を静かに、迎えていこうと思ってます。