2011年3月11日(金曜日)、午後2時46分に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生した。
大地震直後、三陸沿岸を中心に大津波が襲い、岩手・宮城・福島の沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。
大規模災害が発生した場合、災害ボランテイアセンターを立ち上げ、その運営は、仙台市と仙台市社会福祉協議会の協定により仙台市社会福祉協議会が行うことになっていた。
仙台市では準備が整った区から、区災害ボランテイアセンターを立ち上げた。若林区災害ボランテイアセンターは3月16日に若林区中央市民センター別棟で立ち上がった。
災害ボランテイアセンター立ち上げ当初から、篤い思いを持ったボランテイアの方々がたくさん集まってくれた。しかし、ボランテイアの依頼がなかなかこず、ボランティアさんを長時間待たせてしまうという事態が生じた。災害ボランテイアセンターが地域住民の中に浸透していなかったのと、自力で復旧活動しなければならないと思っていた方が多かったからだ。そこで災害ボランテイアセンターの周知を図りながらニーズの掘り起こしをしていった。
災害ボランテイアセンターでは「被災者に添う」ということをキーワードに、被災者の心をおもんぱかったボランテイア活動を推奨してきた。依頼者(被災者)との心の触れ合いを大切にしたボランティア活動をしてくださいとお願いしたのだ。
泥かきがボランテイア活動の中心になっていくにしたがって、新たな対応が迫られた。当時心配されたのが「感染症」とくぎの踏み抜き等による「破傷風」であった。どのように対策を立てればいいか区役所等の関係機関にアドバイスをいただき以下のような活動マニュアルを追加していった。
まず泥の消毒。これは被災地域町内会に区役所から配られている石灰で行う。石灰は目に入ると大変なのでゴーグルをかける、マスクをし、帽子をかぶる。手袋は軍手やゴム手袋よりも革手袋がよい。靴は長靴がよいが鉄板の中敷きがあるとさらに良い。
センターとしては、破傷風のワクチンのある病院を確保しておくこと。このような対応をしていった。
5月後半からはさらに「熱中症」対策も講じなければならかった。朝出発の時のオリエンテーションで、休憩をたっぷりとるように、水分補給をしっかりするように、具合が悪くなったら現地で救急車の要請をしてもよい(ただしセンターへの報告も忘れないように)ということを繰り返し話していった。また、企業からの支援物資にペットボトルの水、岩塩等もあったので必要なボランテイアに持たせてやった。
もう一つ見逃せないのがボランテイアリーダーの現地での配慮である。経験を積んだボランテイアがリーダーとなり、グループの作業を上手にコントロールしてくれたおかげで大きなけが・病気をすることもなく災害ボランティアセンターを運営することができた。
たくさんの人に支えられて、災害ボランティアセンターを運営することができた。5か月という長い期間であったが、日々人々の優しさを感じることができ、とてもいい体験ができた。
東日本大震災を被災者としてあるいは発災前の研修、発災直後の避難所運営、災害ボランテイアセンター運営等で関わった私たちは、この体験を次世代及び東南海地震や首都直下地震等を心配している全国へ発信していく必要があるのではないかと考えた。
そこで、毎週水曜日の夜集まり討議を重ねた。最初のうちはおぼろげながらHUGのようなものを想定していたが、具体的には全然形が見えず、時間だけが過ぎていくという感じであった。
そのような中でも途中で投げ出さず続けてこれたのは被災者として全国の方々から支援していただいた御礼あるいは被災者としての責任を果たさなければならないという強い思いからであった。
討議を重ねるうちに、「自助」「共助」を基本として「備え」の大切さを分かってもらうカードゲームを作っていこうという方向性が定められた。
方向性が決まってからも、どのようなカードゲームにするか、ゲームのステージはどうするか等検討することは多々あった。私たちだけではなく、仙台の方はもちろん全国からたくさんの方にアドバイスをいただきどうにか形が出来上がった。
大規模災害時の対応を公助だけでまかなうには限界がある。また即時対応もままならない。まず「自助」、そして近隣住民と協力しての「共助」が大変重要になってくる。私たちはこのような考えで「SSG仙台発そなえゲーム」を開発した。
家具の転倒防止、1.2倍の買い物で循環備蓄(自助)近隣との関わりを強くし、地域内の連携(共助)このことが防災・減災の基礎となると思う。