『東日本大震災・大津波』
釜石市大平町二丁目6 釜石市大平町仮設団地1棟2号
横 山 幸 雄
「心は流されない」第2集
私は津波に家も自家用車も体も流されました、今は自宅跡はただの野原です、「市のお話ですと3Mの土盛をし、その後に家を建てても良い」との事ですが、3年7ヶ月が過ぎました。仮設暮らしは取り合えず2年間とのお話でしたから我慢をして物を増やさない様にして来ましたが、3年過ぎるとのお話で又少し足して買い物をして居ます。3年目で国道45号の切り替え嵩上げ住宅地の嵩上げと整備に入りました、明年4月宅地が引き渡しとの事、先が見えて来ました。
今住んでいる釜石には津波の記念碑は低い所にしかありません、今度の三陸津波は今住んでいる人には思いもよらない事でした。「群馬大学の片田先生は必ず来るであろう」、と言っておられましたが「なぜ」今まで来た事がないものがどうして来るの。その疑問が判らないからなかなか信じられない事でした。しかし釜石市では、防災訓練を毎年実施していたが、年々参加者が少なくなってきたので、市の教育方針として「学校から」と力を入れ片田先生が小中学校に教えましたので釜石市立鵜住居小学校と隣の東中学校では避難生徒全員570人が助かりました。
これが「釜石の奇跡」と云われたが当の生徒達は奇跡では有りません先生の言う事を聴いただけと云って居ります。先生は ①想定にとらわれるな ②最善をつくせ ③率先避難者たれ この3点の防災教育のお陰であろうと云われております。今回の被災者に老人が多いのは百年も来ないので来る訳無いと信じた事と思います。地殻変動は必ずある事が今後の防災に役立てばと思います。この度の津波の後で津波の来た所を掘って見たら千年前後に来た跡がある、「今回が始めではない」と言われております。
私は平成23年2月まで1年4ヶ月ほど三陸鉄道南線のガイドを1ヶ月に5回位やっておりました、その時三陸沿岸には日本語では理解の出来ない地名が有る事に気付きました。その頃にアイヌの人が住んでいた事を聞きました。アイヌの人には当時文字が無い民族であった事、そしてこの地には、津波の記念碑は出来ないのです。文字が無くとも何か伝える方法はそれが「津波石」ではないでしょうか、口伝えでは千年も続ける事は難しいのでは、先住民が悪いのでは無く、津波に対する研究が足りなかったのではないか、それが今回の大震災となり2度と震災に遭わないようすべきです。私は数年前に台湾に旅行をしました。その時のガイドさんは「おじいさん」で日本語の上手な方でびっくりしました。私は「なぜそんなに日本語がお上手なのですか」と尋ねると、「自宅では台湾語、義務教育の尋常小学校では日本語、終戦後は英語」との事で驚きました。
やはり自分の住んでいる所は勉強すべきだと考えガイドクラブに入会し、地元の勉強を始めて間も無く三鉄のガイドと成りました。やっとガイドの面白さが出た所で東日本大震災です。今思えばよく助かったものだとヒヤリとします。その時はなぜこんな事になったのか、こんな不幸が何処にあるの、ナゼ ナゼを繰り返しました、7月仮設住宅に入りました。その時仙台に移住した知人が仮設に置いていってくれたのは「日本三代実録巻十六陸奥国地大震動」の一部でしたその文によれば、貞観6年(864年)には富士山の噴火、貞観11年(869年)5月26日宮城県多賀城市「陸奥国府の多賀城の城郭・倉庫・門・櫓・壁は崩れ落ち」大地震と大津波が来襲したとあります。この災害により壱千人の死者が出たとあります。
わが国は地震国といわれております、地震があっても、津波が来ようが安心して住める国がほしいのです。わが国は敗戦国とは言えど高度経済成長や高文化の誇りの持てる国ですが、技術立国として誇りスパコンは世界一でないといけない、なぜ世界で一番怖い原発を克服出来ないのか、外国では原子炉を船に積んで利用している、日本ではそれも途中でダメになりました。平穏無事のときは経済大国として胸を張り、いざ事故があればただオロオロするばかり、皆逃腰では大国が泣きます、もっと研究に力を入れて、安心、安全な国を作ってもらいたい、私は以前に原発を見学しました。感想を聞かれた時、「百獣の王はそれに負けない様なオリに入れておくべきだ」と言った事が有りました。この度の震災では何代も代々続いた家があっけなく壊さなければ成らない、住み慣れた土地を家を生活の基本と成る仕事を捨てて新規に開拓しなければならない、本当に気の毒で残念の極みであろうと思います。
その事からすれば、私は幸せの方ではないか、しかし、よく落ち着いて考えてみると、わざと津波を起こした人は居ない。誰も恨む事はない、結論は人生の試練であろうと思う、試練は必ず乗り越える事が出来る、乗り越えられない試練は神や仏は人間には与えないだろう、もしも一人でダメなら二人で、それでもダメなら3人4人皆で頑張れば必ずや乗り越える事が出来る。それには常に周りとの協調であり、団結のお手伝い、そして語らいと思います、「岩手の結いの心」が大切だと思います。私は2度と津波や災害に遭わない様にそして何方も災害に遭わない様にと祈るばかりです。
私の生まれは山形県川西町です、中学3年に統合中学校が出来1年間8キロの道を通学しました。平成23年3月20日その中学校の閉校式があり、出席の予定でしたが災難により出席出来ない旨、避難先の姪宅の「インターネットで町役場に送り近くの同級生に伝えて下さい」と連絡しました。その後小学校時の同級生から見舞金が届きました、激励の文や支援物資もありました。その中には中学校の同級生も集めているとの事で1年間のお付き合いですからと、お断りをお願いしましたが。
県内はもとより県外の方々からも多数ご支援と激励を戴きました、ナゼ私にそんなに支援くださるのか、1人1人に逢って御礼を言いたいと、出来ない事を思い暫く涙が止まらなく成りました。又親戚や友人、知人からも沢山、支援金や支援物資を戴きました。釜石市老人クラブ連合会事務局長として全国各地からの支援の方々への被災地視察の案内やら現状報告など各地に出向きました、又全国各地から支援金や支援物資を戴き心から厚く御礼を申上げます。俺だけは大丈夫の気持ちが揺らぎ「目が覚めました」本当に皆さんの御支援には心から有難う御座いました。
平成26年10月
釜石市老人クラブ連合会 元事務局長 横 山 幸 雄
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釜石市大平町二丁目6釜石市大平仮設団地1-2
よこやま ゆきお
横 山 幸 雄
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