語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

三陸河北新報社 新聞記者の震災体験 第2話

役場近くの高台に家が2軒だけ残っていました。避難させてもらおうと訪れると、家人は避難した後だったのか無人でした。避難したメンバーには当時の町長がおり、専決処分で「俺が許すからみんなで泊まらせてもらおう」と言い、2軒に分かれて入れてもらいました。


 


 この日の夕食は、家にあったミカンを半分と飴が1個。極度の緊張の中で、甘い物は本当に嬉しかった。ラジオをつけると、石巻の中心部のコンビニが水没している、仙台市海水浴場で死体が数百体浮いている、気仙沼が火の海に包まれているなど、女川を襲った津波を見ていても、流れてくる内容に驚きの声があがりました。内容は悲惨であっても、ラジオで情報が流れているということは、少なくとも日本は沈没していない。女川はやられてしまったが、外では生残っている人たちがいる。必ず助けに来てくれる。と思え心の支えでした。


 


 船で沖に避難した漁師さんの話です。漁船にラジオと無線があった人達は仲間と情報交換をすることができましたが、無線機が故障しラジオを持っていなかった船主さんは、陸が燃えているのを見ながら、自分ひとりが残されたのではないかという不安に陥り、これほど心細かったことはなかったと言っていました。人間は情報の生き物だといいますが、どんな悲惨な情報でも、情報があることは本当にありがたいことでした。


 


 少し余談です。避難させてもらった家で、皆一睡もできずにおりましたが、12時を回る頃、片寄せあっている状況の中で、体の大きな男性が完全に横になり寝始めました。それだけなら誰も文句も言わないのですが、凄いいびきが聞こえてきました。一緒にいたお母さんの中にはたまりかねて「ようこうな時に寝れっこと」と言われた方がいましたが、奥の方で年配の男性が「何、それぐらいでねえと生き残れねえ」と言ったんです。そうしたら場の雰囲気が軟らかくなりました。どんなときでもユーモアって大事だと教えられました。


 


 ラジオでは女川町についての情報は1つも流れませんでしたが、朝5時頃に「女川町の情報は全くありません」とだけ流れました。


 


 この日の夜は本当に長く、こんなに朝が来るのが待ち遠しかったことはありません。この日の朝日は本当に嬉しかった。明るくなると女川の被災の状況が目に飛び込んできました。


 


 16mの高台にある病院まで津波に襲われていたり、3階建てのビルの屋上に車が転がっていたり、鉄筋のビルが横倒しになっているものもありました。地震で液状化がおき、そこに大きな津波がきて杭が抜けてしまいビルが倒れたとのこと。女川町では、倒れたビルを震災遺構として残すことになりました。


 


女川では津波があまりにも大きかったためか、土台だけを残して家はほとんど海に流されていました。そのため皮肉にもこの土台が畦道のような役割を果たし比較的安全に移動ができました。


 


高台の病院に到着すると、1階の2m付近まで津波に襲われていました。その病院に多くの患者さんが運ばれてきます。運ばれてくる方の半分は低体温症、もう半分は津波を飲んでしまい誤嚥性肺炎を引き起こされた方でした。津波は多くの砂を含んでいます。飲んだ量の半分は砂だとのこと。遺体安置所にて解剖をすると肺が全部砂で埋まっていたそうです。「溺死ではなく溺砂」だと取材したお医者さんは言っていました。


 


  病院は避難所ではありませんが、約400人の方々が避難していました。また、1階にあった薬局などは流されてしまいましたが高血圧や糖尿病などの持病の薬を持たないで避難した人々が続々と病院を訪れていました。先生が薬の名前を聞きますが、「丸くて黄色いやつと、白くて長いやつ」などの答えが返ってくるだけで、名前が分かりません。ぜひ、持病があり薬を飲んでいる方は、薬の名前を覚えるか、薬の名前が書かれている紙を免許書などよく持ち歩くものなどに入れておいてください。


 


 病院で取材をしていた時に出会った方から、女川を歩いて出ることが出来るルートがあることを教えてもらいました。女川を脱出する事に対する後ろめたさもありましたが、親類などがいない女川に心細さを感じていたことと、気仙沼にいる女房の安否が気になっていた事。そして、格好よく言えば、女川町の情報が何もラジオで流れなかったため、新聞記者として女川が壊滅してしまったことを本社へ戻って伝えたいと思いました。


 


 女川で津波に襲われなかった地区に入った時、瓦屋根が落ちるなどの被害はあっても、震災前と何も変化のない街並みがありました。その中の1軒の家で、だるまストーブで炊いたお米で作ったおにぎりと、自転車をお借りし石巻に向けて出発しました。その時にもらったおにぎりが本当に美味しかった。余談ですが、震災後、石油ストーブが飛ぶように売れました。暖かいだけではなく、灯りにもなり、調理器具にもなったためです。


 


通れる道を探し、何とか石巻までたどり着き本社に向かいましたが、本社周辺は津波に襲われたのち水が引かず、浸水して近づくことが出来ませんでした。そのため仙台の親会社までヒッチハイクで向かい、記事を書こうとしましたが何故か文字が書けず、初めて口述筆記をしてもらい仕上げました。