語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

三陸河北新報社 新聞記者の震災体験 第1話

3月11日は、議会の取材のため車で石巻から20分ほどの場所にある女川町を訪れていました。女川町は、さんまの水揚げが盛んな風光明媚な港町です。


 


2時46分、あの地震が起きました。三陸地方は地震が多い地域なため地震には慣れているつもりでしたが、あの日の地震は本当に恐ろしかった。どんなに大きな地震でも必ず収まるはずなのに、1度おさまりかけても再度襲ってきたので周囲ではパニックになる人もいました。


 


私は、ついに宮城県沖地震が来たと思いました。大きな地震が来たら「津波」が来ると教えられていたため、すぐに50mほどの高台に車で避難し、また、避難してくる住民を取材しようと思いました。しかし高台に到着後、ラジオか何かで第1波の津波が9cmだと聞こえたため安心し、消防団の活動の取材をしようと高台を降りてしまいました。


 


役場の前に車を停車し2~3歩あるきだした時、消防団の無線から鬼気迫る声で女川原発がある浜を「津波が越えた!」という声が聞こえてきました。危険を感じたため高台に戻ろうとしましたが車が大渋滞を起こしていてすでに戻ることが出来ず、咄嗟に近くの女川町役場(4階建)に逃げ込みました。


 


取材のため持っていたカメラで多くの写真を撮影しました。写真には撮影時間が残ります。それを見ると地震発生後から49分後の写真に流れ込んできた津波が写っています。


 


津波は最初すっと流れ込んできましたが、見る間に高くなり車を流し木造家屋を破壊していきました。何が起きているのか分からず頭の中はパニックです。プロパンガスのボンベがロケット花火のように飛ぶ姿や、電線がひきちぎられて海面に触れた瞬間、火花が飛ぶ様子、19tもある漁船(全長約20m)がどんどん流れてくる状況は、この世のものとは思えませんでした。 約3分で町が破壊されてしまいました。私は、この様子を役場(4階建)の屋上の塔屋の上から見ていました。


 


津波の高さは4階の役場屋上の下10cmの所まで迫りました。女川を襲った津波は18mです。役場が6mほどの高台にあったため助かりましたが、そうでなければ今、お話しする事は出来ません。


 


第一波が満ちてからほどなくして引き潮が始まり、残っていた家々をすべて流していきました。屋上から見ていた役場の人や避難してきた住民は、ただただ静かに町が破壊されていく状況を見ていました。泣き叫ぶ人はいなく、本当に不思議な感じがしました。


 


 ただ屋根にいる人を見つけると、引き潮のすさまじい音で聞こえないとは思っても、「こっちに上がれ」「もっと大きい屋根に移れ」など必死で叫びました。


 


津波は、第1波よりも第2波、3波のほうが大きいと聞いていたため、屋上では危険だと考え、皆で塔屋の上に登ることになりました。貯水槽には鉄橋子が垂直に取り付けられていましたが、お年寄りがのぼるには難しく脚立を利用したり、車いすの方は消防ホースで車椅子ごとぐるぐる巻きにして上から引っ張りあげるなど、皆で必死に逃げました。


 


その日は雪が降ってきました。春の雪はベタベタ雪なためすぐにとけ、洋服にしみこんできます。津波には濡れずに逃げられましたが雪のため体が濡れてしまいました。


役場の人達が、第2波が来る前に建物内に戻り、決死の思いで数枚の大きな板とゴミ袋を持ってあがってきました。 


 


大きな板は、選挙の時に使用する「投票に行きましょう」と書かれた看板です。赤ちゃんづれのお母さんをなるべく中心にして、女性や年配者を集め、少しでも風に当たらないように板で囲みました。また、ゴミ袋に腕と頭を出すための穴をあけ、ヤッケにしてかぶりました。役場の職員はテキパキと動いていました。役場の方がいたからみんな冷静だったと思います。 後日、「おれたちが一生懸命動いているのに、おめえ写真ばっかり撮りやがって」と言われましたが(言葉はきつくても優しい人たちなどで誤解されないように)、私は写真がなかったら正気を保てたか分からない状況でした。


 


 午後6時頃だったと思います。あまりの寒さに、お年寄りは青ざめていましたし、赤ちゃんは泣き叫んでいました。このままでは凍死してしまう状況だったため、津波が低くなっていることを確認し、ビルを脱出する事になりました。役場の職員が人海戦術でどうにか1階まで降りる道を確保してくれ、全員無事にビルから出ることができました。