語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

Oさん 男性

東日本大震災を決して忘れてはならぬ。
そして未来へ伝えるべきである。

 3月11日2時46分。東日本大震災、発生。
小生は、荒浜から約6km離れた丘陵地の亘理神社にいた。神社本殿、社務所の一部の屋根瓦が激しく滑り落ち、土煙が舞い上がり、狛犬、石碑等がずれ落ちる。町内からも悲鳴と土煙が見られ、経験したことのない大地震。
 今回の津波は、一瞬にして昨日までの穏やかな日常生活を奪い、長く暮した故郷が更地になってしまった。無念さ、恐ろしさ、虚脱感は底深い。外出している場合は、安全が確認できるまで丈夫な建物で待機。川、海の様子は見に行かない。津波、高潮、洪水の特別警報では、低地や海岸から速やかに離れる。状況に応じて避難、待機。家族と避難場所を何カ所か決めておくことが大事だと思う。


「荒浜に津波は絶対こない」と繰り返す親子
約1ヶ月後に相次いで家の近くで発見された


 世の中終わりかなと感じつつ、家族がいる荒浜へ向かった。その時、初めてカーラジオで津波が襲来と知り、驚く。自宅は異常なし。だが、側溝の継ぎ目から鼠色した液体が。液状化だ。
 指定避難所の荒浜中学校へ向かった。妻も避難していた。区長、役員の約束ごとがあり、車、リヤカーを用意。高齢者、要介護者宅へ、避難の声掛けと誘導をする。避難に応じない父親(80代)娘(60代)へ最後の勧告に。軽トラックのラジオからの津波情報で、気仙沼~石巻~仙台津波襲来を聞いてもらい、再度説得したが、漁師の経験から「荒浜に津波は絶対こない」と繰り返す。娘さんは父の意見に同調せざるを得ない。一礼をして「早く逃げてください」と。親子は約1ヶ月後に相次いで家の近くで発見された。


避難所まで押し寄せる津波に
避難した方々の自宅が目の前を流れていく


 荒浜中学校は、付近に住居する方々の指定避難所。約450名が避難。校庭には100名以上の車が駐。3階に上り窓から亘理温泉の方を見ると、海岸防波堤を大きな白波が乗り越え、黒い水と氷壁に似た感じの津波襲来。すぐに家屋、漁船船舶、防潮林、車両、瓦礫等が津波と共に避難所まで押し寄せて来た。目の前を避難した方々の自宅が流れていく。「アーアーもう駄目だー」と声を張り上げる人。何も言わずに目に涙を溜め、じーっと見つめる人。隣人3人と車で避難したTさんは「主人が校庭にいる、でも避難しただろうと」必死に各教室を探している。「車の中でラジオの津波情報を聞きながら避難する」と言い階段を下りていったのが最後に聞いたTさんの言葉。H夫妻は亘理中学校に避難したが、津波到着 時間まで、薬か何かを取りに荒浜の自宅に戻り災難にあう。
 両親、子供達が心配で亘理から荒浜に、途中津波に流された方々が。


トイレの水はバケツリレー
紙は卒業式用の桜の花の紙


 電気、水道、暖房、情報、トイレ等、インフラが全く駄目。酸素を必要とする方がおり、心配したが持ちこたえる(役場の方が携帯無線で手配していた)。
 観光に来て被災した方が「赤ちゃんのお湯がない」と、役場の方が屋上貯溜水タンクからバケツで汲み実験室のフラスコでお湯を温める。足りなくなり、キャンプ一式を持ち、避難してきた方のミニガスコンロを借り、ベランダで温める。トイレの水は校庭が湖と化したので、バケツリレーで3階へ。紙は、当時荒中は卒業式だったので各教室に桜の花紙が沢山あり、避難した一部の方々、学校教職員、役場の方2名(地震後すぐに荒浜中学校に来ていた)が真剣に取り組み、450名を守ってくださった。水位が低下し始めたが、まわりは瓦礫、流木、流れ着いた漁船、泥水(海水)で、地形がわからぬ状況。夜中に、自宅の2階に避難した数人が救いを求め荒中に。体温低下は著しく。「良かったね」と皆。窓のカーテンを外して暖を、靴はダンボールで。2日目の早朝より、ヘリコプターが飛び交う。屋上にSOSと書いてあるが反応せず。自宅の2階にいて助かった方が吊り上げられていく。夕方、ボートで役場職員、消防隊員がおにぎりを持ってきた。
 帰りのボートに幼子、老人の方一部が避難。真白いおにぎり美味かった。感謝です。


大型発電器が届き、拍手
夜中トイレに行くのに頭を蹴ることもない


 3日目の早朝、ヘリが何回も旋回し、屋上の強度、耐震を調査していった。15人乗りのヘリが屋上に着陸。大きな、ありがとうの声。荒中から岩沼市民会館広場、亘理高校へ。ゆっくりと腰を下ろす間もなく、被災地吉田、荒浜に大別、更に地区割で家庭毎に一人一畳程度を目安に。身動き出来ない程の狭さ、でも安心して腰が下ろせると。
 あちこちで被災した様子、今後の事をささやき始めている。心配していた家族が再会を喜び、抱き合い、涙している光景があちこちに。
 救援物資が届く。誰もが身一つで避難している。何もない状態だ。並ぶのにも元気な人が先頭に、手に入らぬ時もある。班編成を作り平等に配布。救援物資で、一番の喜びは、停電していたので、大型発電器が届き、体育館に外から明かりが差し込む。それだけで皆、拍手。夜中トイレに行くのに頭を蹴ることもない。支援が全国各地から。行政、町内、外資系各有名店、理美容組合等、自衛隊の六甲のお湯は、心身共に温まった。戦後を生き抜いた人は、「食べさせていただいた上にお湯まで」と。
 この被災で出会いが。定年間近に、海が好き、海の傍で暮らしたいとのことで、新築移転者が多く、身寄りが少ない人と話の友に。
 震災で辛いことがたくさんあった。こんな思いを皆様に決して味あわせたくない。そんな思いで語り部をしています。


(平成25年10月)