語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

沢舘 志美子さん 女性・64歳

沢舘 志美子さん

 「人生は何が起こるかわからない」
生きたくとも生きられなかった人々がいる事を忘れずに

 まさか数分の間に身近な人々や家を流失するという事があるとは思わなかった。今でも悪夢であってほしいと願わずにいられない。しかし現実は厳しく、1日1日を生活の再建に、前向きにゆっくり歩んでいる。


この地方に伝わる「津波てんでんこ」
頭で理解していても、心は違っていた


 忘れもしない2011年3月11日14時46分。マグニチュード9.0の東北地方太平洋沿岸に発生した巨大地震により、岩手県大槌町は立っていられないほどで、裸足で店舗兼住宅を飛び出した。街全体が大きく動いていた。電線は縄跳びのように上下左右に揺れていた。ただ事でない雰囲気。無気味であった。すぐ「逃げよう!」と感じた。家の中は物が散乱していた。二度とかなわぬ事であったが「後で戻って片付けよう」と思ったりした。膝関節症の私はすぐ車を準備し普段使用していたバッグを持った。
 災害の為に準備していたリュックサックは、あわてて失念していた。
 82歳の隣人に声を掛けたら「連絡は取れていないが、娘はきっと来るので待っている」と言う。無理やり車に乗せた。安全な場所にいた娘さんは舅、姑さんの止める腕を振り払い、母親を助けたい一心で波に向い車を走らせたと聞く。いまだに行方不明である。もう一人、私の姑の弟嫁を乗せた。やはり足が悪い。表道路は渋滞で、とっさの判断で裏道路を走り逃げた。
 生死を分ける瞬間だった。自分の町の道路を熟知しておく事も大事だったし、渋滞の時、いつ車に見切りを付け放棄するか? 路上で水深一〇センチ位かなと思った。
 この地方には「津波てんでんこ」という言葉が伝えられている。大きな地震があったら津波が来るので、自分の身は自分で守り、より高い所に、てんでばらばらに逃げる事。
 しっかり逃げて命を守れば必ず家族に会えるし、血脈も絶えることなく、辛く悲しい思いをしなくても良いという教えである。しかし頭で理解していても、やはり心は違っていた。子供を学校に迎えに行ったり、老親が心配で職場から家に戻る途中に多くの命が波にさらわれた。災害前に避難場所を決め、自力で逃げる方法を話し合い、後はお互いに信頼する必要を感じた。今回避難所が何カ所も出来、身内の安否を確かめるのに難儀した。会えないと次は遺体安置所巡りであった。


「携帯を忘れた」「お位牌を忘れた」「ペットを捜す」と
戻った人達は、帰って来ませんでした


 津波は物凄く速い。人の膝頭あたりで溺れ死ぬと言う。一目散に逃げるべし。地震が来て100回逃げて、100回津波が来なくても101回目も逃げて欲しい。「狼少年」ではありませんが、命あってこそ、です。より高い所へ逃げたら戻ってはいけません。津波は第一波、第二波・・・と何度でもやって来ます。
 「携帯電話を忘れた」、「お位牌を忘れた」、「ペットを捜す」と戻った人達は、帰って来ませんでした。赤ちゃんを「抱っこ」していたお母さんは、「あっ」と言う間に手から離されてしまいました。親の背に負う「おぶい紐」が一本あったらと悔やまれます。前で抱っこする紐では駄目です。黒く大きな盛り上がった波は、家々を押し潰し、流し、町は3分30秒で海と一体化し火災も発生した。これが本当の「火の海。」恐ろしさに震えた。波が引き、鎮火した後は、深く積もった「ヘドロと瓦礫」が残った。とても口惜しい思いでした。
 「まるで終戦後のようだ」、「若い人が多く亡くなり、役立たずの私が生き延びた」と嘆くお年寄りがおりました。私は「ゴーストタウン」という表現がピッタリだと感じました。
 震災前の人口は約15000人。震災後は、約1300人が犠牲になり、そのうちの約400人の行方が知れません。町役場は、加藤大槌町長、幹部職員含め40人の尊い命を失いました。トップを失った町は大変でした。復旧復興のスタートは出遅れました。


お互いに傾聴し合うことで
心の回復をはかる効果があった


  次の日からは警察、自衛隊、ボランティアの人々が町にやって来ました。人命救助の捜索、浸水被害住宅の泥出し、家財の撤去、炊き出し、避難所の支援、河川や海岸の清掃。
 私達は茫然自失の状態でした。国内、海外からの援助物資のお蔭で、着のみ着のままで逃げた私達は、命を保つ事が出来ました。本当にありがたかったです。避難所ではお互いに助け合い、一日一日「生きる」事で精一杯でした。しばらく凍りついていた感情も溶け始め、地震、津波、火災から脱出した時の恐怖を語り合いました。私を含め、東北人は忍耐強いと思いますが、それぞれに「おしん」のようなドラマが書けそうです。後で考えますとお互いに傾聴し合い、少し心の回復をはかる効果があったと思われます。又、日常飲んでいる薬の説明書なども、1枚財布等の中に入れておくべきです。落ち着いてから薬を申請するのに種類を多く服用している人は、「血圧を下げる薬」と言っても副作用の心配もあり、お医者さんでは時間がかかったようです。


常日頃から愛ある言葉をかける
失った命は戻りません。「命」は宝です。


 ひどい有様でした。が唯一良かったと思う事は、閉鎖的なこの町に「黒船」のように押し寄せた「人との交流」です。小中高校生は刺激され、知識が豊かになり、積極的になりました。中学校では「私達は大槌町の未来の設計者」とスローガンを掲げて、一所懸命に勉学に励んでおります。私たちの希望の灯です。
 震災後すぐに「海のバカヤロー!海は大嫌いだぁー!」と流失を免れた建物に、スプレー缶で吹き付けられていた文字もありましたが、私達、海の側に住む者にとって、漁家の人はもちろんの事「豊穣の海」でもあるのです。
  春の若布から始まり、海胆、鳥賊、鮭、鮑と一年中食卓を潤します。自然に対する畏敬の念を持ちながら共存する事を学びました。電気や水洗トイレなど、ライフラインの快適な生活の便利さとハイテクの弱さを痛感し、震災後、蛇口をひねり「水が出た!」電気が「点灯した!」と手を叩き、無邪気に喜びあいました。
 日常、多少なりとも持っていた不平不満は、災害の前には吹き飛ばされ、いかに毎日平凡に続いているかのように見える生活が、「明日がある」とは限らない大切なものだと、思い知らされました。私達は、いつ、どこで災害に合うか、誰にもわかりません。勇気を持って率先して逃げる事です。 
 それから二度と災害で命を失わないように安全な街づくりの為に、1人1人の防災意識を高め、準備しておく必要を感じました。ある日突然、側にいて「あたりまえ」と思っていた人を失う悲しみは、とても大きく辛いものです。常日頃から夫、妻、子供、親、恋人等、優しく大事にし、愛ある言葉をかけて下さい。失った命は戻りません。「命」は宝です。この震災で強く思いました。私も諦めることなく、希望を持ち、生き抜いていこうと思います。


(平成25年10月)