語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

鈴木 る美子さん 女性

避難したのに戻って犠牲になった人がいた
自分でここは大丈夫と簡単に判断しない事

 私はあの大地震の時間は、気仙沼市田中前の条南分館で集りがあり、大きい揺れを感じ、外にすぐ出た方が良いのでは、と頭の中には思い浮かんだが、床に座り込み動けなくなり、少し揺がおさまったので、やっと外に出た。
 また揺が大きくなり、しばらくするとおさまり、すぐ皆帰ることになり、分館の職員さんが、「大津波警報が出ましたよ」とのこと。

ガソリンが半分しかないので、給油したかった

いつでもどこでも給油できると思っていたのに


 すぐ車で自宅にもどらなければと急ぎ、カーラジオからは、30分後くらいに6mの津波が来る、と報じていた。何とか早く家に帰りたい。

 ガソリンが半分しかないので、給油したかったが、停電で出来ない。いつでもどこでも給油できると思っていたのに。

 大津波が来るといっても20m以上海岸から離れている我家が住めなくなるとは思わず、時々揺れるのでハンドルがとられ、信号の止まった道は渋滞状態、脇道に入りながら唐桑へとむかった。唐桑の入口に位置する只越地区へ行ったら、 ここまで波が来たのかと思う所までガレキが来てここから先には行けない。

 高台の方へ行って海の方を見ると、住宅はほとんど倒壊し、この場所でも私の知っている女性二人が犠牲になり、いまだに行方不明だと思うが、家族のことを思うと胸が痛む。とにかく自宅に戻りたかった。


真赤に燃えた太い帯状が暗闇の中に大きく見えた

気仙沼はもうだめだ


 津波は自分の眼で見ていないが、集落のほとんどが倒壊している現実を見ても、まだ我家は住めなくなったと思っていない自分がいた。私の住んでいた鮪立地区へやっと戻ったが、海岸の道はガレキが山の様に重なり、自宅には行けない。少し高台になっている伯母の家の近くに行ったら、まさかここまで津波がと思う所なのに、1階部分はガラスが壊れ、近所の方に聞いたら86歳になる伯母が行方不明とのこと、薄暗くなり不安が募る。雪もちらつき、寒くもなってきた。

 避難所となっている地区の高台にある老人憩の家へと行った。停電中なので被災している人々は勿論、地区の人達でごったがえしていた。

 夫と二人暮しだった私は、夫が心配しているだろうと思うが連絡はとれず、夫の方は、時間的に被害を受ける所にはいないはずだと安心していた。今夜はここから動けない。明日の朝になったら行動を考えようと避難所にいた。

 10時半頃連絡がとれ、唐桑半島の一番先にある崎浜地区の親戚宅にいるとのこと、むかえに来てもらいそちらの方へ移動した。

 その途中、高台の道から気仙沼商港方面が火事になり、真赤に燃えた太い帯状のものが、暗闇の中に大きく見え、気仙沼はもうだめだ、と言葉にもならなかった。


命より大事なものってないのです。

命があれば何とかなります。


 ローソクの灯で明りを、暖は小さな灯油ストーブ、何とか一夜を明し、朝はうっすら雪化粧した地面、寒かったが、空腹もそんなに感じず、これからどうしようなんて、何も考えられなかった。全国のテレビで被災地を見ていた人々は、大変心配してくれていたのを後で知った。子供達も私達に連絡がとれず、心配していたとのこと。

 我家が海の近くということを知っていた人は、犠牲になったのではと思った人もいたらしい。

 今思うと震災後、しばらくは無我夢中で過ごした。今まで経験したことのない、これからも経験させたくない、したくないことだ。

 生きていくうえで、想定外のことが起らないとは限らない。異状な事が生じたら、身の安全な所へいち早く避難することだ。

 避難所には最低限の生活用品等準備すべき、個人は緊急持出しを用意しておくべき。しかし、戻ってまでは、取りに行かない事。

 そうした人が犠牲になったと聞く。また、自分でここは大丈夫と簡単に判断しない事、避難することが大事です。後で自分の家は被害がなかった、でもいいのです。命より大事なものってないのです。命があれば何とかなります。

 本当に全国の、いや全世界の人々より手を差しのべられ、今日があり、何とか生活をしています。

 助かった命は大事にし、何らかのお役に立ちたいと思っています。


(平成25年10月)