(二)恐ろしい一夜
不安の中に夜が来た。私はまた高架線の土手に上つて眺めると、夕方、東から南へ、点々として黒煙が上つて居たが、夜になると、それが見渡す限り一体の火の線になつて、弱るかと思ふと更に新しい火焔がすさまじい勢ひを以て幾度見なほしに来ても火の海は依然火の海で、火の奥にまた恐ろしい火があつた。
電燈の消えた暗い線路の上を、荷物を背負つていろいろの避難者があとからあとからと続いて来た、東からも南からもやつて来た。その人々に聞き訊すと、東京市の全部は今全く火に包まれてゐると聞いて、グンと胸をつかれるやうな恐ろしさ悲しさがせめて来た。大変が来たのだ!世の中のたてなほしが来たのだ、今後人間はどうなるのだらうと生まれてはじめての大きな恐れをひしひしと感じて来た。私は、親戚のものゝ安否をたしかめに出かけたが火を前にして歩いて行くので、さながらお祭りの町へ行くやうな心持がしたが、かへりは火を背負つて居るので底知れぬ深い穴ぐらへ落ち込むやうなさびしさだつた。
ふりかへると、かかる人生の恐ろしさの中に、月はちやんと出る所へ出て居た。異様な光は人生の不安をうつして居るやうだつた。自然と人生、思へば、最も深い交渉のあるべきもの、また今見れば、それはあまりに没交渉のやうな心持がした。