大学の理工系研究室では,火災危険の大きい化学物質や実験装置を取扱うことが多いにもかかわらず,教官や学生達の安全意識はそれ程高いとは思われない。事実,ある安全工学の専門家は,大学の研究室時代を振り返って,安全への関心はほとんどなかった旨の感想を述べている。
昨年(平成13年)名古屋市内では,大学の研究室で発生した火災が4件あった。いずれも基本的な取扱い又は操作上のミスから発生したもので,安全意識の欠如が引き起こした火災であった。
火災事例1 二硫化炭素の発火による出火
《火災概要》
理学研究室において,中国人留学生(30歳)が超伝導実験で使用するフラーレン(炭素の同素体で分子式C60)の生成を行なっていたところ,生成したフラーレンを二硫化炭素で抽出する過程で二硫化炭素が発火したものである。
フラーレンの生成装置は,嫌気下回収型フラーレン生成装置と称するもので,ヘリウムガスでエアパージした後減圧したチャンバー内で黒鉛棒を電極としてアーク放電させることによってフラーレンを含んだ煤を生成するものである。この煤を集めて二硫化炭素でフラーレンを抽出するが,生成するフラーレンの量が僅かであるため,通常は回収ボックスに溜まった煤だけでなく,チャンバー内に付着した煤も集めて抽出を行なっていた。
出火時は極微量のフラーレンを生成するため,チャンバー内に付着した煤のみを使用しようとしていた。アーク放電後のチャンバー内は無酸素状態であり,回収のために蓋を開けた際に空気が流入したことにより煤が酸化発熱したと思われる。そして,ビーカーに回収した煤の熱が下がらないうちに二硫化炭素を注いだため,これが発火したものである。
学生も含め二硫化炭素の危険性状に対する認識はあったが,安易に取扱ったこと,及びこうした低引火物質や毒劇物の取扱いは,必ずドラフト内で行なうという極めて基本的な実験手順が守られていなかったことが,事故に至った要因と言える。
フラーレン生成装置構造図
出火箇所付近の状況
火災事例2 パラジウム炭素の酸化熱によって発火した火災
《火災概要》
大学の合成化学研究室で,大学院生(22歳)がカルボン酸とベンジルアルコールの化合物をカルボン酸とトルエンに加水素分解する実験で,実験器具に残存付着していた水素化触媒のパラジウム炭素をティッシュペーパーで拭き取り,ごみ箱(ポリバケツ)に捨てたところ,ごみ箱から出火し実験室の一部を焼損したものである。
水素化触媒として用いるパラジウム炭素には多量の水素を吸着させる。パラジウム炭素に吸着された水素が放出されると,極めて活性の高い水素となるからである。したがって,水素を吸着したパラジウム炭素自体も活性に富み,非常に酸化され易い状態になっている。本事例は,この酸化熱が出火原因となったものである。
なお,パラジウム炭素はメタノールに混合し,この混合液に水素吸収する方法で用いられていた。
合成化学実験室の焼き状況
《再現実験》
パラジウム炭素をメタノールに混ぜた混合液に水素を吸収させ,珪藻土を入れたろ過器でろ過し,ろ過器に残ったパラジウム炭素をティッシュペーパーに回収して発火の有無を確認した。
その結果,ティッシュペーパーにパラジウム炭素を回収してから約1分後に発火してティッシュペーパーが燃えた。なお,水で湿ったティッシュペーパーに回収した場合は発火しなかった。
本事例でもパラジウム炭素を拭き取ったティッシュペーパーをくるんで水に濡らしてからごみ箱に捨てているが,濡らし方が不十分だったために出火に至ったものと思われる。
パラジウム炭素
パラジウム炭素とメタノールの混合液に水素を吸収
ティッシュペーパーに回収した
パラジウム炭素の発火状況
火災事例3 投げ込み型ヒーターの空焚きによる出火
《火災概要》
工業力学実験室で学生の卒業研究用の実験装置から出火した火災である。この実験室では,液体の張力などの測定実験を行なっており,夜間や休日でも装置は常時運転されていた。
実験は,ステンレス製の水槽(直径40㎝,深さ45㎝)に入れた水を投げ込みヒーターで温め,温度センサーで水温を制御しながら水槽に入れた試料(金属容器に密封した蒸留水約0.1㏄)の張力などを歪ゲージで測定するものである。
水槽には,ヒーターや温度センサーのほか,水の撹拌装置や水深を一定に保つためのレベルキーパーと補水タンクがを取り付けられていた。水槽は,低温,中温,高温用の3台あったが,出火時は高温用(投げ込みヒーター:200V2kW)の水槽だけで実験を行なっていた。
水槽の水は蒸発により減水するため,レベルキーパーで水深が一定になるように補水タンクから水を補給するシステムになっていた。また,水の蒸発をできるだけ防ぐため,水面いっぱいに直径5㎝のポリプロピレン製のボールを浮かべていた。
出火前日の夜,指導教官の助教授(56歳)がレベルキーパーのシャフトの掃除をする際,補水タンクのコックを閉めたが,掃除の後コックを開けるのを忘れて帰宅したため,水が蒸発して空焚き状態になり,水槽に浮かべていたボールや水槽の外周に巻いていた断熱材に着火して約17時間後に出火に至ったものである。
実験装置の置かれていた棚の焼き状況
高温用水槽の内部の状況
火災事例4 真空ポンプのスイッチ火花によりnーヘキサンに引火
《火災概要》
排水処理研究室で大学院生(25歳)が,真空ポンプ内に溜まったスラッジを洗浄しようとnーヘキサンを入れてポンプの電源スイッチを入れたところ,スイッチの火花がポンプ内のnーヘキサン蒸気に引火したものである。
さらに,消火しようとした当人がnーヘキサンの入ったガロン瓶を倒したため,こぼれたnーヘキサン(約2リットル)にも引火し火災が拡大した。
排水処理研究室に置かれた真空ポンプの状況