「火の見櫓は何を語るか」

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「火の見櫓は何を語るか」

火の見櫓からまちづくりを考える会事務局長
常葉学園大学造形学部講師
土屋 和男

火の櫓を見て歩く

火の見櫓を見て歩いている。私たちの仲間では2年半かけて静岡県内に千基に近い火の見櫓が存在することを確認した。その調査の結果を目にした人は、とりあえず感心してくれる。よくこんなに集めましたね。しかし、何のためにこれだけやるのですか、と聞かれる。その答えは、自分たちでもわからない。では、この奇妙な情熱はどこからくるのですか。これにはいくつかの答えを用意することができる。

火の見櫓を見て歩く愉しみは、まず第一に、同じ機能なのにそれぞれのかたちが違う多様性にある。ほとんどふたつとして同じデザインはなく、実にさまざまな形態を見せている。これはいくつも集めて見てわかることである。調査をやりはじめてこの多様性に気づいてからは、それぞれのかたちのよしあしはともかくとして、とにかく全部を並べてみたい、そしてそれがどこにあるのか知りたい、という思いが調査の原動力となった。

現在目にすることのできる火の見櫓は、多くが昭和20年代から40年代にかけてつくられた鉄製のものだが、これだけでも、全体の姿、高さにはじまって、脚の本数、ハシゴの上り方、見張り台と屋根の有無、形態、大きさ、そして細部につけられた飴細工のような装飾など、きわめて多彩なかたちのタイプがある。そしてそれらの組み合わせと、さらにそれぞれのタイプごとに微妙に異なるヴァリエーションによって、無数といってもよいほどのかたちが見られるのである。加えて、色も銀、赤のほかに他県では水色、青なども塗られている。

この多様性はなぜ生み出されたのだろうか。これには同じにしようとしてもできなかったという側面と、意図的に違いを出したという側面とがあろうと思われる。しかしこのどちらの側面においても、そうなった理由は地域、地区の実状に応じた建設がなされたからにほかならない。そして、火の見櫓を建てる資金も人も技術も、地元のなかから生み出されたのである。火の見櫓を見て歩くと、ときどきその脚下に、それが建てられた時期、資金提供者、製作した鉄工所などが銘板や石碑に刻まれていることがある。これらはその地域、地区の人々が自主的に防災を考えて火の見櫓を建てた証である。小さなコミュニティが自分たちで建てたものだから、自分たちのものであるという意識も強かったに違いない。ここにかたちの多様性を生み出す積極的な動機が推測される。すなわち、自分たちがつくる火の見櫓は、隣の集落とはひとあじ違ったかたちにしたい、あまり逸脱したものは望まないが、節度を保ちつつもちょっとだけおしゃれなものにしたい、そんな思いがなかったろうか。そして、そうした思いに対して地元の鉄工所が誠意をつくして応えた手の痕跡が、火の見櫓のかたちの多様性につながっていると考えられるのである。火の見櫓の履歴に出会い、こうした思いを感じられることを、火の見櫓を見て歩く愉しみの第二に挙げておきたい。


生活とともにある景観と音

火の見櫓を見て歩く愉しみの第三は、それがなければまず行くことはないであろう土地を訪ね、その土地の景観を目にすることができることである。市街地のなかでぽつんと忘れられたように残っているもの、農村のなかで民家を背景に立っているもの、そして雄大な山々を分け入ったあげくに現れた集落のなかで大自然に抱かれて立っているもの、こうした火の見櫓に出会う喜びは、同時に火の見櫓のある景観を目にする喜びである。そうした景観に辿り着くことは、身体の運動とともに感慨をともない、火の見櫓がなければ見過ごしてしまったかもしれない景観を風景として再認することとなる。火の見櫓を目のつけどころとして見て歩けば、やがて集落や民家や街並みや自然といった景観の目利きになれるかもしれないなどと夢見たりする。

火の見櫓の残っている場所は、古くから小さなコミュニティの中心であることが多く、そうした場所ではコミュニティの歴史を物語るものがいろいろとある。公会堂、民家、鎮守の社、お地蔵さま、常夜灯、顕彰碑などが火の見櫓とセットで写真に収まる。こうしたものを目にすることで、たまたま訪れた一般には無名の土地でも、その来歴の一端を知ることができる。そのことはいわば、土地の名を知る喜びである。かつて民家をきのこに喩えた建築家がいたが、火の見櫓もその土地に生えているきのこのようなものである。

火の見櫓はその機能からしても、集落のなかで見やすいところ、見られやすいところに設置されるのが普通である。しかし、火の見櫓を訪ねて行くと、以外に、そういえばあったね、というような言葉を聞く。集落の人々さえも、あまりに身近すぎて見過ごしているのである。毎日見えているにもかかわらず、意識的に見ることは少ない。気がつけばそこにある、という感じである。しかし、この慎ましやかさは貴重だと思う。まるで日常生活の所作の一部のように人々とともにあり、目立たない。それは、いかにもコミュニティのシンボルと主張するものなどよりもよほど難しく、大切な造形だと思う。

火の見櫓はまた、音を聞かせるという機能によって生活とともにあった。危機が身近に迫ったときには半鐘の連打によって、近郷の危機には音のリレーによって非常事態を知らせた。中山間地に行くと、たまに集落から外れた場所に半鐘が下がっていることがあるが、これらは隣の集落との連絡を考えて設置されたと思われる。半鐘が打たれることは今ではほとんどないが、消防信号の「火の用心」は同時に「愛郷」の鐘でもあった。


コミュニティをまもるもの

火の見櫓は、言うまでもなく防災施設である。それはコミュニティの安全を見張り、危機と注意を半鐘の音で知らせた。「まもる」とは、もともと「目(ま)守(も)る」の意であり、まさに火の見櫓はコミュニティをまもるもの、そのものだった。

しかし、今は櫓の上に人は登らず、鐘も打たれることはない。そういうわけで火の見櫓はどんどん撤去がすすんでいる。実用上の機能があるとしても、工作物としての櫓が残っているのは多くの場合ホース乾燥塔として転用されているからであり、半鐘もごくまれに火の用心の警鐘を鳴らす程度である。このように、その本来の役割をすでに終えたものであるから、撤去されてしまう。それもやむをえないことかもしれない。地域、地区の人々がそれを望むならば。大切なのは、火の見櫓の撤去が地域、地区の人々の意見によって決められているかどうかである。

現在、火の見櫓が多く残る場所は、市街化の進んでいない農村部や中山間地など、いわゆるいなかである。こうした地域では地理的条件から、近隣の火災や天災の際に消防本部等からの迅速な援助を期待することが難しく、消防団によって自らのコミュニティは自らまもるしかない場合が多い。だが、実はこのことはいなかに限らず、大地震のときなどには都市部でも直面する事態である。したがって、消防団のような地域、地区の自主的な防災組織がきわめて重要なことは間違いない。

しかしながら、こうした組織が抱える問題も多いと思われる。高齢化、過疎化はもはやいなかだけの問題ではなく、サラリーマンが遠くに職場を持ちながら消防団活動をしにくいのは都市部だけの問題ではない。こうした問題に対しては、一方で組織としての消防団を見直さなければならない点があろうし、もう一方で、いざというとき助けにきてくれるのは会社ではなく隣の人なのだから、地域的活動をときには経済活動より優先させる必要もあるという社会的認知がえられなければならない。

最も基本的なことは、コミュニティの人々それぞれが、自分たちの防災にふさわしい姿を考えることであろう。そうした考えのなかでこそ、火の見櫓を撤去するかどうかも決定されなければならないし、逆に、コミュニティの防災のあり方を考える糸口を、火の見櫓に見出すこともできるのではないだろうか。


コミュニティがまもるもの

火の見櫓は江戸時代に起源を有するが、全国にくまなく建設されたのは昭和期、それも現在残っているものの多くは高度経済成長期に建設されたと推測される。これは近代化の過程と一致し、全国一律の消防通信施設としてつくられていったと見ることができる。ところが、そのかたちはと言えば前述のように多様である。このことが意味するのは、火の見櫓の建設にあたってはシステムの普遍性に対して地元の個性と技術で応えたということである。

火の見櫓に見られるこの普遍性と多様性は、そのまま組織としての防災のあり方を示していると思われる。人命と財産をまもる防災の目的は普遍的である。そのための組織もどこでも必要である。しかし、それぞれの土地の実状はそれぞれ違う。どんな組織がよいのかもそれぞれ違う。地形も住宅の密度も不燃化率も消防団の成員もそれぞれ違うなかで、多様な防災の姿がそれぞれの住民によって追求されてもよい。火の見櫓のかたちの多様性を生み出した積極的な動機、すなわちコミュニティの自主性こそを、積極的に評価しなければならない。

防災に限らず、これまでの基盤整備は都市型でなされてきた側面が多かった。なかにはいなかの方が都市以上に都市的に整備されたところすらある。しかし、こうして整備された結果が必ずしも全面的によい評価をもたらしているわけでないことも事実である。むしろ、環境や食の安全に対する関心の高まりとともに、いなかのよさ、豊かさが見直される強い思潮が、今、世界規模で見られる。これはどちらがよいという問題ではなく、いなかはいなかで、都市のものさしでは測れないよい面があるということなのだ。

「まもる」には、大切なものとして扱う、見守って世話をする、という意味もある。いなかも都市も、双方がよい面をまもり、伸ばしてゆくことがまちづくりだと思う。そのためにはすでに存在し、歴史を経ているものを見直さなくてはならない。なぜなら、そこに存在し続けたということは、ほかのどんなものをもってしても代え難いからだ。火の見櫓はそうしたコミュニティの遺産なのだ。