解説
安政二(一八五五)年十月二日の地震は、江戸開府以来の大地震で、震源地は本所深川であったといわれている。当時の記録によると入間(いりあい)の鐘が鳴り夕食もすんで、これから読書でもしようという四つ頃、大きくゆれて忽ち倒壊家屋が出た。同時に約三十二箇所から火の手が挙ったが、誰一人手の下しようもない。家の下敷となった人は見殺しで、助かった人は右往左往するばかり、火に逐われて、大川へ飛込んで死んだのも数知れず、といわれている。吉原では遊女を地下室に入れて蒸焼きにしたのもあり、宿直がえりの旗本主従が、崩壊した土蔵を被って埋れてしまったのもあった。
地震はその後も小ゆれが続き、七日にはまた中位のが襲った。生き残った人は皆野宿をしていたが、あわてふためいて仮小屋から飛び出すものもあった。この時、また半壊の土蔵が崩壊した。しかし小ゆれは、なお十一月に入っても時々あって、人心旧に復したのは師走に近い十一月末頃であった。
この大震火災の損害は、まちまちで確かなことはわからない。一番おそく発行されたとおもわれる一枚摺には、死亡十二万人弱とあるが、「安政雑記」に残っている亡霊の供養員数だけでも、各宗派合計二十一万九千九百余人となっているから、この外に一家全滅も相当あろうし、供養の出来なかった家もあろうから、死亡実数はもっと多かったとみて間違いはあるまい。崩れた土蔵は少いのが八百四十七万、多いのは七億二万などと書いてあって、問題にならない。
地震は、ところにより強弱があって、強かったのは、本所・深川・鉄砲州・築地・浅草・富沢町・村松町辺で、本芝・田町・高輪・品川等之れに次ぐ。日本橋・神田・両国辺は、またその次ぎで、麹町・四っ谷は弱かった。吉原は地震前に失火があって全焼、焼死・圧死千五百六十人、負傷二千三百余人と記されててる。
地震の錦絵では、鹿島大明神と鯰と要石(かなめいし)が題材に用いられているが、地震は地中の鯰の仕業で、それをおさえつけるために鹿島大明神が要石をのせておくというのが、古くから日本の伝説になっているからで、此地震に限ったわけでなく、ずっと以前の地震のときも、この伝説を絵にしたものが発行されている。しかし、この時ほど沢山にこれを題材にした錦絵が出たことはなかった。早く出たものは、右のように鹿島大明神を拝む絵とか、鯰をいじめる絵とか、鯰が鹿島大明神に叱られている絵などであるが、後には鯰を主題にした戯作漫画が沢山に発行されている。そのうちには鯰にせなかをさすられて、小判を吐き出している持丸長者の絵もある。これは救済のため御用金を出させられた諷刺である。それはまだしも、後になると、「鯰のちょぼくれ」「すちゃらか」「地震けん」と云ったような諧謔が飛出して来た。また白黒の木版摺の読売も出て、そのうちには「新板道化百人一首」「夜中笑いの種」「江戸大火地震くどき」「大地震やけっぱらくどき」などという不まじめなものもあった。江戸始まって以来の大悲惨事を馬鹿にしたようなものであるが、始終火事に見舞われている江戸っ子には、あきらめの精神の徹底していたのであろう。これを買い、これを口誦んで新らたな生活へ踏み切ったのである。宵越しの金を持つのを恥とした江戸っ子以外には、了解の出来ない境地である。
「かわら版物語」小野秀雄 雄山閣出版より