〔其ノ拾七〕“百万遍と地震”の話

〔其ノ拾七〕“百万遍と地震”の話

 

”百万遍”というのは、京都の左京区にある浄土宗の大本山「知恩寺」(知恩院は総本山)の俗称で、その名の由来は、元弘元年(一三三一)に疫病が大流行したとき、八世・空円が後醍醐天皇の命で知恩寺において、七日間の”百万遍”念仏を行い、霊験があったことから”百万遍”の号を賜わり、勅願寺となったことによるものといわれている。その方法は、この鯰繪のように、御本尊の前で信者が珠数につかまり、お経をあげながらこれを廻して、行を行うものである。
なんでも題材にすることを得意とした江戸時代の庶民は、この"百万遍"というごく普通に見られる信仰の方法に、庶民の願望をひっかけて、地震鯰繪に仕立てたというのがこの絵である。
絵の構図は、浄土宗の有難い僧侶を地震大鯰に見立て、わざともっともらしく、これまで各地で地震を起すたびに、人々に難儀をさせたことは大変申し訳なく、鹿島神宮にもわびを入れているが、またまたこのたびの安政地震を起こしてしまったことは重ね重ね申し訳なく思っているなどと、お経の文句調に言わせている。
鯰自身は、もう決してこんな大暴れはしたくないのだが、地震で金儲した人々(例の材木屋、職人達)が、もう一度おどけて下さいと、信仰厚い"百万遍"をもちだしてまで頼むというくだりで、地震の再来を願うのに、南無阿弥陀仏までを引っぱりだしているところなど、庶民の地震に対する願望を仏画調に言わしめ、潜在している世直し意識にゆさぶりをかけ、地震の再来を願うという、いとも奇妙な鯰繪である。
上の方には、度々の地震で死亡した亡霊を画いているが、これは地震による怨多き人々で、金儲け組が”百万遍”を唱えているのは、回向によって地震で死んだ人々の後生をとむらうと同時に、さいわい生残った自分達はより幸せになりたいとする願望を表現したものと思われる。
鯰繪の題材が、こんな形式にまでなって売り出されたという特種なものの一つとして、この鯰繪は興味を引かれる例である。