安政大地震の後に発行された鯰繪は、実に多種多様、多岐に亙って表現されているが、ここでとりあげた〔其ノ拾弐〕から〔其ノ拾九〕迄の八点の地震鯰繪は、幕末期に庶民の総てが持っていた潜在的な世直しの意識を、これら一連の鯰繪に托して表現したもので、余り極端に幕府を批判したものは発売禁止となり、町奉行所で取締りを厳重にして、目明かしなどの町方が没収したといわれている。ところが、発禁になるようなこの種の世直し鯰繪は、庶民の人気を集めたようで、江戸の町の見えない部分で流通し、おびたゞしい種類の鯰繪が出廻っていた。これが各地方にも伝わって、他の鯰繪と共に各地に遺され、今日まで保存されてきたわけである。 “世直し”意識とは、当時、幕府は外国からの圧力とそれに対する国内世論の激化で、その対策に追われ、庶民に対する政策など省みられなかったことから、社会の底辺の庶民の生活は非常に苦しいものであった。しかし庶民の微力ではいかんともしがたく、人々の心の奥底に、“なんとかならないものか”という願望が根強くあったことは、当然の成り行きであり、これが“世直し”意識の蓄積となり、この当時の一般的な庶民感情となっていた。 このような世相のところに、大地震が襲いかゝったため、その潜在意識は、たちまち地震に置替えられ、それを現わす手法に鯰が登場してきたというわけであった。 その“世直し鯰繪”の代表格が、この絵のお話で、地震によって儲かった連中が、鯰を世直しの大恩人に祭上げ、医者を伴ってお見舞するという構図で、そのせりふのやりとりは、江戸庶民特有の洒落を入れて、実に面白く表現されている。登場人物とそれぞれの職業にひっかけた洒落が、この鯰繪の見所であろう。 登場人物(せりふは典型的な江戸弁) 鳶職 “鳶に油揚げ” 大工 “瓢箪薬――酒” 土方 “しかたがねえ”――“土方(どかた)がねえ” 骨継 “障子・傘”のほねと“人の骨” 左官 “さかん(盛)に”を“左官”に引っかけ、儲かることを“こてこて”と表現。 材木屋 “をう木に”は“大いに”の当て言葉、“気はもめぬ”を“木”に置替える。 四文屋 “そろばん”の割算の呼声、二一天作の五……二進(鰊)三進……せっちん(便所)くさかろうと洒落。 大工 “大工すり”“大薬”の当て言葉。 仲間 “ぢしんかみなる(神)かずおほく”と、地震の神が沢山来てもらいたい願望と、“地震、雷”の当て言葉。 屋根屋 “地震葺”という屋根の葺方か。 輿屋 駕籠かきのこと。 医者 “十月二日の夜四ツ”からの“ふるへ”と地震を見立て、処方は“鹿島丸”(こんな薬はなく鹿島様のかけ言葉)をのめとすゝめている。 大鯰 この鯰のせりふが、作者が主張したいことを代弁している。 このあいだの、地震で体を台無しにし、頭痛がすると病状を医者に訴え、自分は世間を穏やかに、頭痛のないよう(安穏な暮し)にしたいが、ふるえ(地震)が止まらないから“世直し薬”をのんで治したいと、’作者が鯰をかりて、世直しを秘かに訴えるという設定になっている。 これらの登場人物は、地震のお蔭で大儲けをした連中で、心秘かに地震の襲来を有難がっていることが現わされ、わざわざ医者を伴って地震に見立てた鯰に、感謝の意をこめているところである。 擬人化された地震鯰が、“世直し”を主張しているが、それは作者が自からの意図を鯰におきかえて、責任を回避したものであり、このように、当局に対する批判をこめて画き、売り出されたものに対して、幕府が目を光らせて、追及したのも無理からぬことであるが庶民にとっては、誠に格好の題材が提供されたといえよう。 行燈の光で文字の読める隠居か大家が、長屋の熊さん、八ッっあんに読んで聞かせ、裏町の人々が大いに拍手して喜んだ様が、容易に想像できる鯰繪である。 |