この絵は“鯰繪”を大津絵節になぞられて画かれたもので、その中の文句、意味は強烈に「世直し」を唱えているが、大津絵節に引っかけて、責任を転稼しようという意図が見えている。地震をきっかけに、庶民が「世直し」で自分達も少しは楽になりたいという願望、夢など、潜在的にあったことをこの“鯰繪”は物語っている。 大津絵というのは、江戸時代初期に、近江国大津の追分辺で売出された民衆の絵で、全く無名の画家が画いたものである。その内容は、民俗信仰、伝説に結びついた戯画や仏画で、簡単な筆彩で、奔放に画かれた絵である。 この絵は、その画法を写し、大鯰を中心としていろいろな人々を画き込み、これを大津絵節という節廻しで“どう化”したものであり、大工や左官、芸人たちの庶民が、強く世直しを願望していることを表現しようとしている。また、文中には洒落も入っていて、当時の庶民の気持を、充分引つける力があったと想像できる。例えば、八方へ燃えて、十方(とほう)を生活の途方にくれて困ることに洒落て、また、鯰が大暴れして骨を継いで直すことが繁昌とは、「世直し」を訴えた潜在言葉であり、更に、祭の跡は“政(まつり)”ごとは、後廻しで永やすみと、当局の無為無策の痛烈な皮肉の意味が込められ、これを女郎言葉におきかえて逃げをうっている。 金持ちが難儀して、庶民が良い思いをすることの「世直し」の潜在意識を訴えようというもので、この絵が発禁になったかどうか確かではないが、このような「世直し」を、極端に訴えたものは発禁処分となったという。しかし、そこは江戸ッ子である。手から手に行渡り、庶民の気持をくすぐったことだけは確かであり、ここに“鯰繪”が単なる瓦版的要素の一枚絵というものでなく、大変な社会思想史上の生きた史科であるといえよう。 |