昭和50年代の消防
(1)災害の状況
火災
昭和50年代の大火発生は2件。1件は、昭和51年10月29日に発生した山形県酒田市大火である。昭和44年の加賀市大火以来、7年ぶりのことである。酒田市大火の被害状況は、死者1人、負傷者1,003人、焼損棟数1,774棟、焼損面積15万2,105平方メートルというものであった。この大火による損害額は405億円と見積もられ、これは戦後最高額となった。2件目は、昭和55年1月12日、滋賀県甲西町において東洋ガラス(株)倉庫火災が発生し、焼損面積4万7,871平方メートルの被害が生じる大火となった。
昭和50年代における主な火災を振り返ると、まず建物火災においては、昭和53年3月10日に新潟市のスナック「エル・アドロ」火災(死者11人、負傷者2人)、昭和55年8月16日には静岡市静岡駅前ゴールデン街ガス爆発火災(死者14人、負傷者223人)、同年11月20日にはホテル火災として最大の死傷者が生じた栃木県藤原町川治プリンスホテル火災(死者45人、負傷者22人)、昭和57年2月8日には東京都千代田区ホテル・ニュージャパン火災(死者31人、負傷者34人)などが発生している。
林野火災は、昭和52年3月15日に栃木県那須林野火災(焼損面積1,517ha)、同年同月25日に北九州市林野火災(消防職員殉職4人、負傷者2人、焼損面積175ha)があり、昭和50年代前半に大規模な林野火災が相次いだ。
車両火災は、昭和54年7月11日に発生した焼津・静岡両市境東名高速日本坂トンネル内車両火災(死者7人、負傷者2人、焼損車両189台)があげられる。また、駅構内の火災として昭和58年8月16日名古屋市地下鉄変電室から火災が発生し、消火活動にあたった消防職員2人が殉職している。なお、船舶火災には、昭和56年5月9日に発生した根室市花咲港船舶火災(死者7人、負傷者1人)、昭和57年3月18日佐世保港船舶火災(死者10人、負傷者22人)がある。
一方、特異な火災事例として、昭和54年3月20日に群馬県水上町上越新幹線大清水トンネル内工事現場火災(死者16人、負傷者1人)の他、昭和59年11月16日に発生した東京都世田谷電話局管内の洞道火災がある。この火災による人的被害はなかったものの、通信ケーブルが破壊されたため住民生活や経済活動等に重大な支障を与えることとなった。
危険物施設、石油コンビナート及びその他の事故災害等
石油コンビナート災害としては、昭和50年2月16日、三重県四日市市大協石油四日市製油所でタンク火災が発生した。この火災を含む相次ぐ石油コンビナートの災害にかんがみ、昭和50年12月に石油コンビナート等災害防止法が制定されるに至った。昭和57年8月21日に大阪府堺市のダイセル化学においてプラントの爆発火災が発生し、死者6人、負傷者204人の被害が生じた。また、昭和53年6月12日に発生した宮城県沖地震において、宮城県仙台市の東北石油(株)仙台製油所の屋外タンク貯蔵所から、重油等が、防油堤外に流出する事故が発生した。
昭和58年5月26日に発生した日本海中部地震においては、秋田県秋田市の東北電力(株)秋田火力発電所内の原油の浮屋根タンクでリング火災が発生した。また、この地震では、新潟県内の浮屋根タンクでスロッシングにより危険物の溢流が生じた。さらに、ガス事故としては、昭和54年5月20日に静岡県藤枝市で都市ガスの漏えい事故が発生し、中毒により死者10人、負傷者32人の被害が、昭和58年11月22日には、静岡県掛川市ヤマハレクリエーション「つま恋」においてプロパンガス爆発事故が発生し、死者14人、負傷者27人の被害が生じるなど、大きな事故が発生した。
自然災害
台風や集中豪雨などによる風水害は、昭和50年代も数多く発生し、全国各地に痛々しい爪痕を記している。中でも死者100人を超える大災害は、この時代に3件発生した。
昭和51年9月には、台風第17号による豪雨のため長良川の堤防が決壊するなどの被害が生じ、岐阜県、兵庫県、岡山県、香川県、徳島県、高知県をはじめとして全国各地に甚大な被害をもたらした。この台風による被害は死者・行方不明171人、負傷者537人、建物損壊5,343に及んだ。次に昭和57年7月から8月にかけて、梅雨前線豪雨及び台風第10号による大雨により長崎地方の中心に被害が生じ、死者・行方不明439人(うち長崎大水害による死者299人)、負傷者1,175人、住家の全壊・流出1,120棟、半壊1,919棟、床上浸水45,367棟に及んだ。さらに翌58年7月には梅雨前線に伴う豪雨により、島根・山口地方を中心に大規模な災害が発生し、死者・行方不明117人、負傷者193人、住家の全壊・流出1,098棟、半壊2,040棟、床上浸水7,484棟、床下浸水1万1,309棟に及んだ。
長崎大水害(昭和57年)
(死者427名・行方不明12名・建物損壊3,039棟)
(「郷土愛に燃えて 自治体消防40年の記録」より)
地震災害及び火山噴火災害は、比較的おだやかだった昭和40年代と比べると、やや頻発した観がある。昭和53年1月14日、伊豆大島近海地震(M7.0)が発生し、死者25人、負傷者205人、住家の全壊96棟の被害が生じた。この地震による死者25人はすべて土砂崩れ、落石、土石流によるものであった。また、同年6月12日には宮城県沖地震が発生(M7.4)し、被害は死者28人、負傷者1万1,028人、住家の全壊1,383棟に及んだ。死者28人のうち18人はブロック塀、石塀及び門柱の下敷きになったものである。さらに同年10月24日には北海道の有珠山において、火山灰等による泥流が地元温泉街を襲い、3人の死者・行方不明者を出した。
昭和58年5月26日には日本海中部地震(M7.7)が発生し、死者104人、負傷者324人、家屋の全壊1,584棟の被害が生じた。死者104人のうち100人はこの地震に伴い発生した津波によるものであった。また、同年10月3日には三宅島雄山が21年ぶりに噴火し、人的被害はなかったものの島内最大集落の阿古地区を中心に340棟が全壊し、190棟が溶岩流のため使用不能となった。翌59年9月14日には長野県西部地震(M6.8)が発生し、死者29人、負傷者19人、住家の全壊14棟という被害が生じた。なお、死者のすべてが王滝村で発生したものである。
長野県西部地震(昭和59年9月)
(死・不明者29名・全壊流出14棟)
(「郷土愛に燃えて 自治体消防40年の記録」より)
この時代には、記録的な豪雪による雪害も発生した。昭和51年12月から翌52年3月にわたり北海道、東北、北陸地方が記録的な豪雪に見舞われ、被害は死者101人、負傷者834人、建物損壊139に及んだ。豪雪によって100人を超える死者を出したのは昭和38年以来じつに14年ぶりのことである。この雪害から4年後の昭和55年12月から昭和56年3月にかけて、東北、北陸地方を中心に再び記録的な豪雪に見舞われ、死者・行方不明152人、負傷者2,158人の被害が生じた。