7.昭和30年代の消防

(2)消防制度

昭和30年代の消防

(2)消防制度

消防団員等公務災害補償責任共済基金の設立

 常勤の消防吏員や消防団員は、公務により損害を受けた場合には損害補償の途が講じられているが、常勤でない義勇的消防団員や消防に協力した一般の人たちが、消防作業のため事故に遭った場合も補償が受けられるよう、国は消防組織法第15条の4及び消防法第36条の2に市町村の補償責任を明確に規定している。さらに損害補償の基準を定め、これに基づいて各市町村は、消防団員等公務災害補償条例を制定し、非常勤消防団員等に対しても損害補償を行うこととしていた。 しかしながら財政上等の理由から、一部市町村においては損害補償が実施されておらず、このため国は、市町村に損害補償を的確に行わせるため、昭和31年に消防団員等公務災害補償責任共済金基金法(昭和31年法律第107号)を制定し、市町村の支払責任の共済制度として「消防団員等公務災害補償責任共済基金」を設立し、昭和31年11月20日からその業務を開始した。翌32年からはここに水防団員及び水防作業に協力した者が加わった。

消防審議会の設置

 占領下に発足したわが国の消防制度は、戦後10年という歳月の中で、わが国の国情にふさわしい制度にするための反省と再検討が行われ、数度にわたり消防組織法及び消防法の改正が行われてきた。しかし、根本的な制度そのものについての再検討には至らず、真に国情に即した消防制度への脱皮成長を望む声は世論、国会及び政府内部から、さらには消防界においても高まりをみせていった。
 こうした時代の動向と消防の置かれている現実の認識に立ち、消防制度を再検討し、消防の改善強化を図るべく設置されたのが「消防審議会」である。消防審議会は昭和32年2月15日に閣議で決定され、同年3月28日付をもって17名の委員が委嘱され、10月10日「消防制度改正に関する答申」を行った。この答申は、その後の消防制度改革の指針となり、消防行政の改善強化に大きな役割を果たした。その後も数々の諮問に応じて答申を行っているが、昭和36年制定した「消防力の基準」もその一つである。

消防大学校と消防学校

 昭和34年4月、消防組織法の一部を改正し、消防界が多年待望していた最高の消防教育訓練を行う国家機関としての消防大学校を開設した。開校にあたっては、昭和23年に創設された消防講習所を昇格させ消防大学校とすることとした。ここに11年間、幹部教育を実施し、都道府県、市町村及び自衛消防隊等の指導者となる人材を送り出してきた消防講習所は役目を終え、新たに誕生した消防大学校は、国の最高消防教育機関として幹部教育を実施するのにふさわしい態容を整え、昭和34年度よりスタートを切った。

消防大学校開校(昭和34年4月20日)

消防組織法が改正され、従来の消防講習所が消防大学校としてスタートした
(「自治体消防四十年の歩み」より)

消防学校の設置進む

昭和34年までに21の都道府県で設置されており、この年消防組織法に「消防学校」という名称が法定された
写真はこの年開校した福井県消防学校
(「自治体消防四十年の歩み」より)

 一方、消防学校は、都道府県に設置することが消防組織法で義務づけられているにもかかわらず、昭和35年度における消防学校の設置状況をみると、当年に新たに設置するものを含めて単独に設置しているもの19、他の施設を借用して必要なときその施設の都合をみて開校するもの17、まったく設置のないもの10、という状況であった。
 消防庁は、全都道府県に消防学校を設置させることを促進するため、昭和34年度から基準建築費の3分の1を国から補助する国庫補助制度をもって促進を図った。これにより、昭和40年度までに単独施設を設置した都道府県は35にのぼった。
 なお、昭和35年7月、自治庁設置法が改正され、7月1日自治省の設置に伴い、国家消防本部は国家公安委員会のもとを離れ自治省の外局となり、国家消防本部は自治省消防庁に、同本部長は消防庁長官に改められた。このことは国の機構のうえにおいても消防が警察から完全に分離し、自治行政の重要な一部門として位置づけられたことを意味した。翌36年7月、消防体制を強化するため、消防庁に次長が置かれた。
 また、昭和36年10月1日、京都市消防局にわが国初の専任救助隊が設置された。