昭和20年代の消防
(1)災害の状況
火災
昭和20年代は大火(焼損面積1万坪=3万3,000平方メートルを超える火災)が相次いだ時代である。終戦から昭和29年までの10年間に、じつに20件もの大火が発生した。終戦から現在(平成10年4月1日現在)までの大火の発生件数は47件であるから、その半数近くが昭和20年代に発生したことになる。まさに大火の時代といっても過言ではない。
とりわけ昭和21年、22年はそれぞれ年間4件、5件と発生が多く、頻発した。中でも長野県飯田市は、昭和21年、22年と2年続けて大火が発生している。昭和21年には負傷者4人、焼損棟数198、焼損面積3万3,500平方メートルの被害を生じており、翌22年には焼損棟数3,742、焼損面積48万1,985平方メートルと、前年以上の大きな被害が生じた。
飯田市大火(昭和22年4月20日)
焼損棟数3,742棟、焼損面積481,985平方メートル
焼損面積では戦後最大の市街地大火
(「自治体消防四十年の歩み」より)
過去複数回の大火の記録はこの飯田市のほかに、秋田県能代市(2回・昭和24年2月20日の大火:死者3人、負傷者874人、焼損棟数2,238、焼損面積21万,411平方メートル、昭和31年3月20日の大火:負傷者19人、焼損棟数1,475、焼損面積17万8,933平方メートル)、同じ秋田県大館市(3回・昭和30年5月3日の大火:死者1人、負傷者20人、損傷棟数345、焼損面積3万8,211平方メートル、昭和31年8月18日の大火:負傷者16人、焼損棟数1,344、焼損面積15万6,984平方メートル、昭和43年10月12日の大火:負傷者1人、焼損棟数281、焼損面積3万7,790平方メートル)、新潟県新潟市(2回・昭和30年10月1日の大火:死者1人、負傷者275人、焼損棟数892、焼損面積21万4,447平方メートル、昭和39年6月16日の大火:これは新潟地震により原油タンクに引火したもの。焼損棟数346、焼損面積5万7,282平方メートル)があるのみである。飯田市の2度目の大火は、終戦から現在までの火災の中、最大の焼損面積であった。
この時代の主な建物火災は、昭和26年5月19日に発生した北海道浜中村劇場火災(死者42人、損傷棟数5棟、損傷面積361平方メートル)、同年6月3日に発生した彦根市工場火災(死者23人、負傷者99人)、やはり同年8月19日に発生した名古屋中日スタジァム火災(死者4人、負傷者331人、焼損面積5,181平方メートル)、さらに同年12月2日に発生した釧路・病院火災(死者14人、負傷者9人、焼損棟数8棟、焼損面積5,567平方メートル)などがある。
昭和20年代は、特に昭和26年に多数の犠牲者を生じる火災が頻発した。昭和21年から29年までの火災における年別死者数をみると、昭和26年が678人と突出しており、他は昭和21~25年、27~28年は400人台であり、昭和29年がやや増加して525人である。その要因としては、この年4月26日に発生した車両火災によって、多数の死者を生じたことによる。
その車両火災とは、横浜市京浜東北線桜木町電車火災であり、同火災によって死者107人、負傷者81人が生じた大惨事である。100人を超える死者を生じた火災は、戦後(昭和21年以降)これが最初であった。
同火災は、先頭1両目のパンタグラフ付近で出火したもので、屋根は可燃性の木材、天井はベニヤ板という戦時規格の資材を用いた車両であったため火の燃え広がりは速く、しかも窓は三段窓で脱出に手間どり、連結部の扉は内側へ開く式の扉であったため、乗客が殺到して開けず、乗客の大半は出火した先頭車両に閉じ込められた状態で前記した犠牲者を生じることとなった。その他の車両火災としては、昭和25年4月14日横須賀市バス火災(死者19人、負傷者20人)、昭和26年11月3日愛媛県国鉄バス火災(死者33人、負傷者16人)が発生しているが、これらは車内に持ちこんだガソリンや映写用フィルムに引火し発災したものである。
昭和20年代を象徴する火災として他に、昭和24年1月26日に発生した奈良県斑鳩町法隆寺金堂火災、同年6月5日の福山城(松前城)天守閣火災、翌25年7月2日の京都市金閣寺火災、昭和28年5月27日の出雲大社火災、翌29年8月16日の京都小御所火災など、わが国の貴重な文化財が火災により相次いで消失したことがあげられる。
このため文化財を火災から護ることを目的に、文化財保護委員会と国家消防本部は共同主唱のもと、法隆寺金堂火災が発生した1月26日を「文化財防火デー」とし、昭和30年に第1回「文化財防火デー」を実施した。以来、今日まで全国的に文化財防火運動を展開している。
法隆寺金堂火災(昭和24年1月26日)
金堂壁画を焼損し、この火災を契機に昭和30年から1月26日が文化財防火デーと定められた
(朝日新聞社提供)(「自治体消防四十年の歩み」より)
一方、危険物施設における火災及び爆発火災としては、昭和27年12月22日に発生した名古屋市東亜合成化学タンク爆発(死者22人、負傷者162人)がある。
自然災害
昭和20年代(終戦日以降)は、大火だけでなく、毎年のように自然災害に見舞われ大打撃を受けた時代でもある。必死の思いで復興を遂げた町は大火で失われ、そこに追い討ちをかけるような自然災害の来襲である。多数の犠牲者を生じた風水害を振り返ってみる。
台風や前線による局地的な豪雨によってもたらされた風水害は、昭和23年9月のアイオン台風(岩手県を中心に被害。死者・行方不明838人、負傷者1,956人、建物損壊1万8,016)、翌24年6月のデラ台風(鹿児島・愛媛県を中心に被害。死者・行方不明468人、負傷者367人、建物損壊5,415)、同年8月から9月にかけてのキティ台風(関東中心に被害。死者・行方不明160人、負傷者479人、建物損壊1万7,203)、翌25年9月のジェーン台風(近畿中心に被害。死者・行方不明539人、負傷者2万6,062人、建物損壊12万923)、翌26年10月のルース台風(山口県を中心に被害。死者・行方不明943人、負傷者2,644人、建物損壊7万2,664)、昭和28年6月の梅雨前線による豪雨(北九州中心に被害。死者・行方不明1,013人、負傷者2,720人、建物損壊1万7,370)、同年7月の梅雨前線による豪雨(和歌山県を中心に被害。死者・行方不明1,124人、負傷者5,819人、建物損壊9,829)、同年9月の台風13号(※昭和28年から台風の名称が人名から番号制に変更された/近畿中心に被害。死者・行方不明478人、負傷者2,559人、建物損壊2万6,071)、翌29年9月の台風15号(洞爺丸台風)(北海道・四国中心に被害。死者・行方不明1,761人、負傷者1,601人、建物損壊3万167うち洞爺丸遭難による死者・行方不明1,139人)、というものであった。
アイオン台風(昭和23年9月15日~17日)
関東、甲信、東北、特に岩手地方死者512人、行方不明326人、負傷者1,956人、建物損壊18,016棟
写真は岩手県一関市内の模様
(「自治体消防四十年の歩み」より)
地震災害については、この時代、多数の死者を生じた地震災害は5件発生している。昭和21年12月21日には南海地震(M8.0)が発生し、死者1,330人、行方不明113人、家屋の全壊1万1,591棟、全焼2,598棟、流失1,451棟の被害が生じた。昭和23年6月28日には福井地震(M7.1)が発生し、死者3,848人、行方不明10人、家屋の全壊3万5,420棟、全焼3,691棟の被害を生じる大惨事となった。また、昭和24年12月26日には今市地震(M6.2)が発生し、死者10人、家屋の全壊873棟の被害が生じた。さらに昭和27年3月4日には十勝沖地震(M8.2)が発生し、死者33人、家屋の全壊815棟、流失91棟の被害が生じている。
福井地震で倒壊した大和デパート
(死者3,895名・全壊35,420)(「郷土愛に燃えて自治体消防40年の記録」より)
また、昭和20年代における火山噴火災害には、昭和21年3月から5月にかけての桜島爆発(死者1人、村落埋没)、昭和22年8月14日の浅間山爆発(死者11人)がある。