2.明治期の消防

(1)主な大火

明治期の消防

銀座の大火

 明治5年(1872)2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火し、折からの烈風にあおられ銀座御堀端から築地にかけての41か町、4,879戸、28万8,000坪(95万400平方メートル)を焼失する大火となった。京橋、銀座一帯は東京の中心地であったため、その打撃は大きかった。時の東京府知事由利公正は、この機会に都市改造を行い、不燃建築物による近代都市を建設することとし、実行に際しては大蔵省のイギリス人技師トーマス・ウォートルスの助言を採用した。ウォートルスは、a.火災を防ぎ延焼を阻止する方法として、街区を整理し道路を広くすること、b.不燃建築による市街を建設することが重要条件であること、――と示唆している。こうして明治6年6月、銀座通り一帯はわが国初の煉瓦街として生まれ変わったのである。

神田の大火

 江戸から明治にかけて神田は大火の多発地帯であった。火事だ!といえば神田か!と返ってくるくらいで、江戸時代後期だけでも神田が火元となった大きな火災は10数回を数える。明治期において焼失家屋1,000戸を超える大火は7件発生した。
 中でも明治14年(1881)1月26日、神田区松枝町から出火した火は、折から北西の強風にあおられて瞬く間に東神田一帯を焼きつくし、日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及んだ。この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の4区52か町に及び、全焼1万673戸、焼損面積12万7,697坪(42万1,400平方メートル)、被災者数3万6,542人に達し、明治期最大の大火となった。この大火は、火元の町名をとって神田松枝町の大火と一般に呼ばれた。

神田松枝町大火の絵(清親画)

(「写真図説日本消防史」より)

 これより1か月ほど前の、明治13年(1880)12月30日にも神田区で大火が発生し、神田、日本橋一帯の町家2,188戸を焼失し、焼損面積2万5,100坪(8万2,830平方メートル)の大火となった。さらに、松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月11日にも神田区で大火が発生している。この大火によって神田、日本橋両区の48か町、7,751戸が全焼し、焼損面積は8万8,328坪(29万1,482平方メートル)に達した。わずか40日ほどの間に3件の大火が発生し、この大火だけで79万5,712平方メートルを焼失したというのだから凄まじい。

日本橋の大火

 日本橋も神田に匹敵する大火の多発地帯である。明治期に5件の大火をみた。中でも明治12年(1879)12月26日、日本橋区箔屋町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほどの強い北西風にあおられて、たちまち現在の日本橋2丁目から3丁目、京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、八丁堀、新富、入船、湊、新川の一部、さらには佃の一部を焼く大火となった。被害は65か町、全焼1万613戸、焼損面積7万4,234坪(24万4,972平方メートル)にも及んだ。
 この大火からわずか1か月余りしか経たない翌13年(1880)2月3日、また日本橋で大火が発生した。日本橋区橘町から出火した火の手は久松町から浜町1~3丁目を焼き、1,776戸、1万5,336坪(5万609平方メートル)が焼失している。

浅草の大火

 明治23年(1890)2月27日、浅草区三軒町から出火し、折からの北西の強風にあおられ寿町、駒形町、黒船町へと延焼し、全焼1,469戸、焼損面積1万2,828坪(4万2,332平方メートル)の大火となった。この大火では常備されて間もない蒸気ポンプが使用されている。

本郷の大火

 明治31年(1898)3月23日、本郷区春木町から出火し、折悪く近隣の消防分署は上野桜木町の火災に出動していたため消防隊の配備が遅れた。しかも本郷地区は高台のため近辺の井戸はみな深く、貯水量も少なかったため延焼拡大し、本郷一帯の11か町、1,478戸、焼損面積1万3,202坪(4万3,567平方メートル)の大火となった。この大火の約8か月後に消火栓が敷設されている。

吉原の大火

 明治44年(1911)4月9日、吉原遊廓内から出火した火災は、貸座敷300余戸、引手茶屋123戸など遊廓内のすべてを焼きつくし、さらに折からの強風(毎秒12mの南風)によって四方に延焼し、西は下谷区竜泉寺町、東は隅田川沿いの浅草区橋場町、さらに千足から南千住に至り、23か町、全焼6,189戸、半焼69戸、焼損面積6万9,539坪(22万9,479平方メートル)の大火となった。この吉原の大火には、消防隊だけでは間に合わず近衛一連隊や警察隊も協力して消火活動にあたったほか、東京の蒸気ポンプだけでは足らずに横浜へ応援要請し、蒸気ポンプを貨車輸送して消火にあたった。

消防活動図

(「東京の消防百年の歩み」より)

州崎の大火

 吉原の大火があった翌年の明治45年(1912)3月21日、州崎遊廓(現在の江東区東陽1丁目付近)から出火し、折からの強い南風により火勢は広がる一方で、火の手は西平井町から東平井町一帯、さらに豊住町へと延び・この地にあった宮内省御料材置場をも類焼した。この火災による被害は全焼1,149戸、半焼11戸、焼損面積1万7,975坪(5万9,318平方メートル)の大火となった。この年、明治から大正へと時代は移り、この州崎の大火は明治期最後の大火といわれるようになった。