江戸時代の消防
組織面ではどうであったか。慶安3年(1650)、幕府は4,000石以上の旗本2人を火消役に任命している。これが定火消と称する幕府直轄の火消組織であり、頭の旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙(がえん)と称する火消人足が働く。はじめは2組で発足したが、明暦の大火後の万治元年(1658)には4組に増設された。このころの定員は512人と伝えられており、1組平均128人となるからかなりの大部隊である。この火消屋敷は現在の消防署に相当し、江戸城周辺の麹町、御茶の水、佐内坂、飯田町に配置され、江戸城防備が任務であった。
定火消の出場勢揃い、馬上が定火消役。
火消の七ツ道具をすっかり準備して出場直前の様子を画いたものである。(「江戸の華」より) (「写真図説日本消防史」より)
定火消のほかに、大名の藩邸自衛消防隊としての大名火消もあった。これは藩邸付近で火災が発生した場合に出動するもので、その範囲によって三丁火消、五丁火消、八丁火消などの形があった。
また、幕府について動員徴用される大名火消もあり、これには方角火消、所々(しょしょ)火消がある。方角火消は正徳2年(1712)に制度化されたもので、江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。亨保7年(1722)には所々火消が制度化され、江戸城や芝増上寺、上野寛永寺、浅草御蔵、本所御米蔵など主要施設11か所を担当させた。
大名火消は、大火になるとこのように家臣、火消の者を従えて、指定された受持場所の配置についた。(「江戸の華」より)
(「写真図説日本消防史」より)
一方、町人による火消の編成は、定火消が生まれてからずいぶん後のことになる。正徳5年(1715)、火災が発生した場合、店ごとに火消役を動員させて火消にあたる店火消(たなびけし)が日本橋地域に発足しており、町単位で30人が火事場に出たと伝えられている。
このころ、幕府の財政立て直しに取り組む8代将軍吉宗は、頻発する大火によって大きな打撃を受けていることから、その打開策は急を要した。そこですぐれた行政家である大岡越前守忠相と協議し、町地は店火消を拡大強化した町人による町火消を編成して護らせ、この防災費は町人側負担とすることとした。
亨保3年(1718)、町火消編成令が下され、2、30町を一つの単位として火消組合をつくり、その担当地域を定め、組の目印が制定された。さらに亨保5年(1720)「いろは組」編成とし、いろは47文字に「ん」を加えた48組とし、語呂の良くない「へ、ら、ひ、ん」はそれぞれ「百、千、万、本」と入れ替えられた。町火消の定員数は、元文3年(1738)においては「いろは組」とは別に編成された本所・深川16組を加え、総員1万1,429人であったと伝えられている。火災による出費は町費をもって賄い、組員は無報酬である点など、今日の消防団の前身といわれるものである。定火消は公設(官設)消防、町火消は義勇消防の元祖として、江戸の治安維持に貢献した。
いろは組の内"を組"組を立て火に迎ふの景(江戸の華より)