江戸時代の消防
江戸時代において、どんな防衛策が講じられていたのだろうか。消火能力の向上は、江戸時代においてはあまり見られない。わずかに竜吐水と呼ばれる腕用の木製ポンプが開発され、明和元年(1764)から町火消組で使用されたが、放水距離もわずか15、6mという貧弱なものであったため、実際の消火にはあまり役にはたたなかったようである。
龍吐水 大阪市消防局蔵
(「大阪市消防五十年のあゆみ」より)
消火能力にはさしたる向上は見られなかったものの、延焼阻止を目的とした都市防災対策には高度な方策が講じられている。当時の消火は、出火地点周辺の家々を破壊し延焼を阻止する、いわゆる破壊消防が専ら用いられ、これは江戸時代を通じて一貫していた。
破壊消防之図(消防絵巻より)
(「大阪市消防五十年のあゆみ」より)
消防器具(消防絵巻より)
(「大阪市消防五十年のあゆみ」より)
火災が発生した場合、いかに延焼拡大させないかという点に主眼がおかれていたのであり、その対策として広小路、火除地、防火堤といった防火線が、明暦の大火後に設置されている。しかし、火災から何を護るかといえば、もちろん江戸城や大阪城である。広小路、あるいは火除地を造成するために、町地が召し上げられることもしばしばあったようだ。とはいえ、代替地が用意されていたというから、一方的に理不尽というものではなかったようである。
その他、幕府は、瓦葺き土蔵づくりの町並みを奨励したり、町の木戸番制度、警火、放火対策、町ごと、家ごとの水桶常備令、二階での火の使用禁止令といった、じつにきめ細かな法の整備を行っている。