江戸時代の消防
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど、江戸の町に火事は多かった。現代同様、江戸における火災も特に11月から5月にかけて多発した。この時期特有の乾燥した空気、強い季節風(冬期には北西風、春先は南西風)、暖房のための火気使用という、火災を発生させやすい状況下にあったことが、江戸の町に火災を多発させた原因の一つとなっている。
しかし、こうした気象条件は江戸に限ったことではなく、他の町でも似たような状況であったはずである。江戸の華とまで強調されたいわれは、火災の規模、そして頻度においてであると考えられる。つまり、江戸で発生した火災は、他の町では見られないほどの大規模火災であり、そうした火災が頻繁に発生したということのようである。
大規模火災に発展した原因は、当時の江戸の町が日本一の過密都市であったことによるものであった。江戸時代の城下町は、住民の身分によって武家地、寺社地、町人の住む町地とはっきり区別されており、江戸では三者の面積の割合はおおむね6・2・2であったといわれる。江戸の町の総人口の半数は町人であり、当然町地は人口密度の高い、過密地域であった。その過密ぶりは、路地裏までびっしりと長屋がつまっているといわれるほどで、こうした町地にひとたび火災が発生すれば、消火能力の低い当時では、火は止まることなく延焼拡大したであろうことは想像に難くない。
260年に及ぶ江戸時代における大火の発生は、約90件と記録されている。3年に1度は江戸の町の大半が焦土と化すような大火に見舞われたのである。中でも、江戸三大大火として知られる火災は、次のとおりである。
明暦の大火
明暦3年(1657)正月18日本郷丸山本妙寺から出火し、翌19日には小石川伝通院前と麹町からも出火。3件の出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸はじめ武家邸500余、寺社300余、倉庫9,000余、橋梁61を焼失、死者10万余人ともいわれ、江戸の町の大半が焦土となったほどの大惨事であった。若死にした娘の愛用していた振袖を、縁起が悪いと本妙寺で焼却したところ、飛火して大火になったことから振袖火事ともいわれる。
明暦の大火
明暦の大火を記録した江戸時代で最も古い火事絵「むさしあぶみ」より。
火勢に追われた人々が車長持を押して避難する様子が描かれている。(「写真図説日本消防史」より)
明和の大火
明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、麻布、芝から日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。別名行人坂火事。
明和の大火
(「写真図説日本消防史」より)
文化の大火
文化3年(1806)3月4日芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸80余、寺社80余、500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。別名車町火事、あるいは丙寅火事ともいわれる。
一方、京都においてもしばしば大火に見舞われているが、中でも天明8年(1788)1月に神社37、寺院201、焼失町数1,424か町、焼失家屋3万6,797戸に及ぶ大火が発生している。この大火は京都の歴史上最大の大火であって「天明炎上記」「京都大火」「京都大火記録」など数多くの記録が残されている(被害状況は「京都の歴史」より)。