1.松代藩の災害絵図
災害の様子を絵や図としてあらわすことは災害の様子を伝える手段として有効でした。そうした意味から、善光寺地震では災害の様子をあらわした災害絵図が多く描かれました。こうした災害絵図にはさまざまな用途がありました。
松代藩がつくった災害絵図の代表として「信濃地震大絵図」があります。これは、地震の最終的な被害状況を示すもので、火災・山崩れ・水害の発生した箇所が色分けされて描かれています。横幅が4メートルをこえる大作です。この災害絵図は単に松代藩の被害を示すのみではなく、南は松本藩からはじまり、北は飯山藩にいたる広大な地域を含んだものです。
この絵図がどのような役割を果たしたかはよくわかりませんが、鎌原桐山著の「地震記事」には雇足軽で大岡村の生まれである、新左衛門が変災の絵図を差し出したとあります。この絵図は、松本・飯山あたりまでも詳細に彩色分けしてあると書かれています。また、藩主・真田幸貫は参府のときにこの絵図を持っていったとあります。これを裏付けるかのように「御側御納戸日記」嘉永三年九月十二日の条に、田安家から「地震之御絵図」が返されたとあります。これらの記事が、「信濃地震大絵図」そのものを指すのかははっきりしませんがその可能性は高いと思われます。これを制作した意図は、震災の様子を江戸において訴えるために藩主が作らせたものと想像されます。
このほか、松代藩が所有する災害絵図には、村からの災害報告をもとにしたと思われるものも含め、断片が数多く残されています。藩の命令で村役人が作るなど公的な目的で作成され、活用されたものと思われます。
出典「震災後150年善光寺地震ー松代藩の被害と対応ー」
2.信州地震大絵図
善光寺地震の被害状況を彩色で示した絵図。絵図は川中島平と松代を中央部に配置し、左端は松本城下、右端は飯山城下までを収めている。松代藩領の中央部山地には、岩倉山の大崩壊をはじめとする山崩れ箇所が克明に描かれ、長野盆地から下流には岩倉山崩壊堰き止めの決壊による洪水域が描かれている。藩主が参府のとき持参し、江戸で震災の様子を訴えるために作られたものと考えられている。
出典「ドキュメント災害史1703-2003」